西南学院大学神学部専攻科卒業

 福岡県出身

 直方教会 宮崎教会 小樽教会の牧師を経て

 2011年7月より当教会牧師

        趣味:スキー、登山、ギター、ウクレレ

 

         松田裕治牧師による主日礼拝説教要約  


2018年2月18日

 

「あなたに欠けているものが一つある」 マルコによる福音書10章17~22節

 

 

 

 「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」の教えをまともな宗教なら(教義を歪曲して、これらの教えに反することを行なうことはあるかもしれませんが、)否定することはないと思います。

 

他の宗教を信じておられる方から、キリスト教の説教を聞いた感想として、「私たちの教えと同じですね」と言われたことが何度もあります。「私は何も信じていません」と言われる方も、これらの教えを否定することはないと思います。

 

 

 

 きょうの聖書の話は次のような話です。

 

 一人の男がイエスの前に現れ、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と質問をしています。彼は確かな救いの確信みたいなものを欲しいと思ったのでしょう。

 

イエスは彼に「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え、の掟を知っているはずだ」と、言います。彼はイエスが今まで聞いたことのないような特別な事を教えてくれると期待していたのでしょうか。「先生、そういうことはみな、子どもの時から守ってきました。」と答えます。

 

 私は、彼がイエスの言葉にがっかりしたように思えます。また、彼はまじめな男だったと思います。

 

彼の問は、まじめな男の真剣な問だったと思うのです。

 

その彼の様子を見て、イエスは彼を慈しんだ(直訳「愛した」)とあります。

 

そして、イエスは「あなたに欠けているものが一つある。」(21節)と彼が求めている答に彼を導こうとされました。それが、「行って持っている者を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21節)の言葉です。

 

 彼に気付かせるための問だったのです。財産を持っている彼が手放すのを怖がったのが、財産だとイエスはわかったのです。

 

 彼は目に見えない神でなく、目に見えるものに安心を得ていたのです。彼の場合はそれが財産だったのです。ある人たちは、それが「健康」であったり、「家族(子ども、夫、妻、父、母)」であったり、「財産」であったり、「仕事」であったり、するのではないでしょうか。しかし、それらのものは「永遠」ではありません。いつまでも存続するものではありません。無くなることもあるものです。

 

 イエスは彼に目に見えるこれらの支えが、彼を救うのでもなければ、また、彼の行う善行が彼を救うのでもないことを教えようとされたのです。

 

 

 

イエスが言われた「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」はモーセの十戒の後半部分(出エジプト記201217節)です。この部分は人間に対する倫理、道徳の戒めの部分です。十戒の前半部分は神に対する戒め部分(出エジプト記20111節)です。

 

後半部分の戒めはどのような宗教でも、また、「私は無宗教です」と言われる方でも、共通して肯定される部分です。イエスはこの倫理、道徳部分を守っているから、救いにあずかるのではないと言いたかったのです。

 

 

 

「彼に欠けているものが一つある」の欠けているものは、「わたし(イエス)に従う」ことです。

 

イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父(創造主なる神)のもとに行くことができない。」(ヨハネによる福音書146節)と言われました。

 


2018年2月11日

 

「子どものように」 マルコによる福音書10章13~16節

 

 

 

 イエスの触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。

 

しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。

 

妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

 

はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

 

これがきょうの聖書の箇所です。

 

ここから2点お話します。

 

1)

 

イエスの弟子たちはなぜ子どもを連れて来た人々を叱ったのか。

 

子どもが邪魔だったからだと思います。弟子たちのその行為を見て、イエスは憤慨なさった(14節)のですから、弟子たちの叱り方は激しかったと思われます。

 

弟子たちには子どもたちはどのよう存在だったのでしょうか。

 

泣いて騒がしい存在だったかも知れません。それだけでなく、子どもは邪魔な存在。経済的にも、奉仕的にも役に立たない存在。何の業績も数え上げることのできない存在。即戦力にはならない存在。

 

そのような存在に思えたのではないでしょうか。

 

 

 

 それに対して、イエスは弟子たちに「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と言われます。

 

イエスの「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」(942節)の言葉を思い出します。

 

パウロも「ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(コリントの信徒への手紙一1222節)と書いています。

 

 

 

2)

 

 イエスは「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(15節)と信仰のあり方についても言われました。

 

子どものようにとは、何でしょうか。

 

イエスは、子どもは罪を知らない、汚れを知らない、純真無垢な存在と捉え、信仰者にもそれを求めておられるのでしょうか。そうではありません。

 

 イエスが求めておられるのは、子どもたちの疑わない心などのことだと思います。

 

子どもの特徴は、言われたことを単純に信じてしまうことです。

 

人が年を重ね、いろんな経験を積むことは良いことばかりではありません。

 

おとなになると疑う心、打算的な心になりがちです。信仰も疑ったり、打算が働いてしまったりと不純な動機の信仰にならないように、「子どものように神の国を受ける人でなければ、決して神の国に入ることはできない」と忠告されたのです。その忠告を心に留め、信仰生活に励みましょう。

 


2018年2月4日

 

「神が結び合わせたもの」 マルコによる福音書10章1~12節

 

 

 

 きょうの聖書箇所は、結婚をどのようにとらえるか。夫婦をどのようにとらえるか。いつも聖書は私たちに良いテーマを与えてくれていますが、今回もとても大切なテーマを与えている箇所です。

 

 物語はファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」(2節)と尋ねたところから始まります。

 

彼らが「イエスを試そうとしたのである。」(2節)と書いてありますから、彼らがほんとに悩んでの質問ではなかったことがわかります。

 

律法の中に矛盾を抱えている問題をわざと選んでイエスにぶつけたのです。

 

イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されています(3節)。

 

その問いに対して、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました。」(4節)と答えています。

 

この掟は申命記2414節に書かれています。

 

その箇所(1節)には、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とあります。

 

すると、イエスは彼らに「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」(4節)と言われたのです。彼らは、あなたたちの心が頑固なので、と言われるとは思わなかったことでしょう。イエスはモーセの掟を否定なさったのです。

 

そして、イエスは聖書が教えている(その箇所は、創世記127節と224節)ことを語るのです。

 

「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は、一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。

 

従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(69節)と。

 

モーセが、離縁状を書いて離縁することを許したのには理由がありました。モーセの時代(イエスの時代も)は、女性の立場が非常に弱い時代でした。女性の人権がないがしろにされていた時代でした。男性の考えだけで、妻を離縁することが容易にできたのです。しかし、妻からの離縁の申し出はできなかったのです。モーセは、「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは」と一定の条件を付けることで、夫の一方的な横暴さを許さないようにしたのです。しかし、夫はその掟を悪用して、解釈を広げて、ずいぶん身勝手な理由で離縁した人たちもいました。

 

 わたしたちが聞かなければならないのは、モーセの教えではなく、聖書の教えです。

 

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創世記127節)男女はどちらも神にかたどって造られた者で、上下関係にはないのです。

 

「神が結び合わせてくださった」とは「二人は生れる前から赤い糸で結ばれていた」というセンチメンタルなことではありません。神が二人の結婚を良しとして下さったということです。

 

神が良しとくださったものを、自分(夫側)の都合で、人間(夫)が切り離してはならないということです。また、相手(妻)は神の許しがあれば、(暴力などに)我慢せず、人間(夫)と別れることもゆるされるということです。

 

この質問はイエスを試すために設定された質問でした。彼ら自身はこの問題で悩んでいたのではないのです。そこには、人格が抜け落ちています。

 

イエスが言われた「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか。悪を行なうことか。命を救うことか、殺すことか」(マルコによる福音書34節)の言葉は覚えておくべき言葉です。

 

 

 


2018年1月28日

 

「塩気がなくなる」 マルコによる福音書9章49~50節

 

 

 

「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは

 

何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 

この言葉はイエスの語られた言葉です。

 

マタイによる福音書とルカによる福音書にも同じようなイエスの言葉が残されています。

 

「あなたがたは地の塩である。塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩気が付けられよう。

 

もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(マタイによる福音書513節)

 

 

 

「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味がつけられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。」(ルカによる福音書143435節)

 

 

 

「塩は良いもの」(50節)と言われていますが、塩味をつける調味料として、また肉、魚、野菜などの保存(塩漬け・塩蔵)に使用される重宝なものです。

 

塩は隠し味で他の素材を活かしてくれます。ぜんざいの砂糖の甘さを引き立てるのに、塩を少々入れます。塩は他の素材を活かす役割があります。

 

それ以外にも、聖書には塩の役割があったことが載っています。

 

レビ記では、献げ物にはすべて塩をかけるようにと命じています(レビ記213節)。

 

民数記、歴代誌下には、「塩の契約」という言葉が出てきます。友情や契約のしるしとして塩は用いられていたことがわかります(民数記1819節、歴代誌下135節)

 

 

 

イエスは「塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。」と言われています。

 

このことを人間(私たち)にあてはめると、自分の持っている特性を生かせず、「自分が、自分が」と自己顕示欲、自己主張が強くなり過ぎると、役に立つどころか、「他者をつまずかせる者」(先週の説教箇所)となってしまうと言うことです。

 

そうならないためにイエスは「人は皆、火で塩味を付けられる。」(49節)と言われているのです。

 

火は迫害や艱難など、またきよめるものを意味しています(ペトロの手紙一1:74:12、ヘブライ人への手紙1229、コリントの信徒への手紙一3:15)。

 

私たちは迫害や艱難などを受けることによって自らの弱さや今まで意識しなかったことなどに気づくのではないでしょうか。それは大切なことなのです。

 

先週の聖書箇所の「つまずかせる者」は蛆が尽きることも、火が消えることもない地獄(48節)に投げ込まれてしまいます。

 

49節に実はギリシア語で日本語に訳されていない単語があります。ガルという接続詞です。訳すと「なぜならば、従って、だから」などとなります。

 

つまずかせた者は火の中に投げ入れられる。その火で「従って、だから」塩味を付けられる、と読めるのです。失敗を失敗のままで終わらせるなら失敗のままです。失敗を失敗のままで終わらせないで、塩味を付けることができるのです。失敗しても神によって地獄の火で学び取ることができるというのです。

 

「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。」(レビ記213節)

 


2018年1月21日

 

「わなをしかける」 マルコによる福音書9章42~48節

 

 

 

 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」(42節)

 

首におもりをつけて沈められた方がましだ。それぐらいの大きなことなのだと分からせようとされたのです。

 

 イエスは続けて、限定的にそのつまずかせるものに話しを持っていかれています。

 

「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」(43節)「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」(48節)

 

「手」を「足」「目」に言い換えて同じように言われています(4547節)。

 

脅しの言葉です。かなり怖い話です。また、厳しい言葉です。

 

 「お酒さえ飲まなければ良い人なのに」 「ギャンブルに手を出さなければ良い人なのに」

 

「すぐにカッとならなければ良い人なのに」「差別語を言わなければ」「悪口を言わなければ」無数の「〇○さえなければ良い人なのに」がいます。

 

 お酒や薬物中毒で暴力事件を起こしてしまった。酒やギャンブルで借金漬けになってしまった。家庭を崩壊させてしまった。「○○さえなければ、良い人」が一つの○○で人生をだめにした人たちがいます。

 

時には大事件になり、取り返しのつかないことになることもあります。ニュースにならない程度なら日常的にいろいろあります。そう考えるとイエスの言われたことが大げさでないことが理解できます。

 

 イエスが弟子たちに(そして私たちに)事の重大性を理解させるにはこれぐらいの強烈な言葉が必要だったのではないでしょうか。

 

それは、私たちが「〇○さけなければ」の○○を軽く見ている傾向があるからです。

 

 あなたをつまずかせる「手」や「足」や「目」を切り捨てる、えぐり出す、のは痛みが伴うものです。また、不自由を伴うものです。しかし、イエスは要求なさるのです。

 

「わたしを信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる」(42節)と言われたように、

弱い存在、小さな存在にそのしわ寄せが行くからです。

  

 きょうの説教題は「わなをしかける」です。どうしてこの話と「わな」が結びつくのかをお話します。

 

「つまずかせる」の原語(ギリシア語)の意味には、「わなをかける」という意味もあります。

 サタンは巧妙なわなをしかけてきます。

 「サタンでさえ光の天使を装うのです。」(コリントの信徒への手紙二 1114節)

  もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。」(47節)

 


2018年1月14日

 

「仲間」 マルコによる福音書9章38~41節

 

 いつも福音書に名前がでてくるのはペトロですが、きょうはヨハネの名前が出てきます。

 

  ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」(38節)

 

従わないとは仲間にならないと言うことです。

 

イエスのお名前で悪霊を追い出すのならば許可を受けてからにしなさい。許可を得たいならば、イエスの弟子になるように、とでも言ったのでしょうか。しかし、この人はそれを拒否したのです。

 

だから、ヨハネはやめさせようとしたのです。

 

自分はイエスに特別に選ばれた12弟子とのプライドが許さなかったのかもしれません(31316節)。

 

ペトロはおっちょこちょいな性格ですが、純粋な心の持ち主だった印象を持ちます。

 

ヨハネはどんな人物だったのでしょうか。イエスはヨハネとヨハネの兄弟ヤコブに、「ボアネルゲス(雷の子ら)」(317節)とあだ名をつけています。雷が鳴るように怒りっぽい性格だったのかも知れません。

 

権力志向は強い人物のようです。それを裏付けするようなエピソードが残っています。彼ら兄弟はイエスに自分たち兄弟を高い地位につけてほしいと願い出ています(103541節)。

 

 ヨハネがイエスに報告したのは、師であるイエスも自分と同じ考えだと思ったからでしょう。

しかし、イエスの答えは違っていました。

 

「やめさせてはならない。」(39節)そして、その理由として「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口を言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」(3940節)と、言われています。

 

この人はイエスの仲間にはなりませんでしたが、悪霊を追い出していたのですから、神の力をうけていたことは間違いないようです。

 

ヨハネは自分には止めさせる権威があると思っていたのです。ヨハネの仲間意識は自分の下に相手を置く仲間意識です。イエスはこのことに「否」を言われたのです。 

 

「わたしの悪口を言えまい」は神に唾を吐くような行為 ―神のためではなく、私利私欲のための行為- はできないだろう、が含まれての言葉だと思います。

 

  イエスの答えはさらに広いものでした。クリスチャン(クリスチャン仲間)でない人たちをも含めて仲間だと言われているのです。

 

「はっきり(ここで使われているギリシア語はアーメン)言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」(41節)

 

乾燥がはげしいパレスティナにおいては、一杯の水はきわめて貴重なものですから、それは軽い行為ではありません。そのような人たちはクリスチャンの仲間であり、神からの報いを受ける人たちだと言われています。

 

 私たちの教会にも多くのクリスチャンではないけれども、教会を助けてくれる方々がいます。

 

感謝なことです。

 


2018年1月7日

 

「誰が偉いか」 マルコによる福音書9章33~37節

 

 

 

 ずいぶん前の話になります。入学試験の時期です。各地の学校の合格発表の映像がテレビで流れていました。超難関有名私立中学の合格発表の当日です。掲示板に合格の名前が載った親子にインタビューしていました。インタビュアーが合格した女の子に喜びの声を聞こうとマイクを向けると、女の子は「偉くなったみたい」と満面の笑みで答えていました。超難関中学の合格ですが、優秀なのでしょう。

 

優秀な人物は偉いとの発想はこの女の子だけでなく、普通一般の発想ではないでしょうか。

 

王、貴族、上流階級などの出身、学歴、経歴、職業などで偉い人を判断してしまうことはないでしょうか。下からのし上がってきた者も同じです。歴史上の人物の中には人の上に立ちたいとの思いが天下を取りたいとの思いになり、更に人からあがめられたいとの思いになり、そして最後に神になりたいと願い、自らが神であると宣言した人たちがたくさんいます。

 

 

 

イエスは弟子たちに道中何を議論し合っていたのかとお尋ねになられました。

 

弟子たちは誰がいちばん偉いかと議論し合っていたのですが、あまりに世俗的な話なので恥じたのか、黙って答えることができませんでした。たぶんイエスは彼らの話が聞こえていたので、質問されたのでしょう。

 

小さな集団の中でさえその中で偉くなりたいと思うのです。

 

イエスは家に着くのを待ってひざを交えて偉い人について話をなさいました。

 

ほんとに偉い人は弱い人の後を支えながら仕える者のことだと、教えています。

 

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(35節)と教えました。

 

イエスの教えは彼らが今まで聞いたこともない真逆の話でした。

 

偉い人は生まれ、学歴、経歴、職業などで決まるのではなく、仕える働きをしているかで決まるのだと言われたのです。

 

ヨハネによる福音書13417節に、イエスが弟子の足を一人ひとり丁寧に洗う記事が載っています。当時足を洗うのはしもべの仕事でした。弟子の足を洗う師など聞いたことがありません。当然弟子たちは驚き断ろうとしています。

 

師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない、と命じています(14節)。

 

 

 

「東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいと言い 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い」 これは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中の一節です。

 

この詩にはモデルと言われている人物がいます。その人物は斎藤 宗次郎です。彼はお寺の子として生まれ、花巻市で最初にクリスチャンになった人物で賢治と親交がありました。

 

 

 

1世紀後半にローマで疫病が流行った時、クリスチャンたちはマタイによる福音書253140節「小さな者の一人にしたのか、わたしにしてくれたことなのである。」(40節)などのみ言葉の実践で、疫病にかかった患者の看護にあたったことが記録されています。

 

 偉い人とはこういう人たちのことではないでしょうか。

 


2017年12月31日

 

「怖くて尋ねなかった」 マルコによる福音書9章30~32節

 

 

 

2017年最後の主日礼拝です。明日は2018年1月1日 元日です。

 

アドベントとクリスマスの期間が終わりましたので、主日礼拝の説教はマルコによる福音書に戻ります。

 

 

 

一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。

 

しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。

 

それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。(9章30~31節)「人の子」とはイエスがご自分のことを言う時の言い方です。

 

「ガリラヤを通って行かれた」イエスは慣れ親しんだガリラヤにとどまらずに、次の目的地へと向かわれたのです。その地こそエルサレムです。エルサレムに上って行く途中、再びイエスは弟子たちに自分の死と復活について語っておられます(10章32~34節)。

 

弟子たちの方からはこの話題には触れなかったのです。

 

「弟子たちはこの言葉が分らなかったが、怖くて尋ねられなかった。」(9章32節)

 

怖くて尋ねなかったのです。私たちにも気になっても言い出せない、ということはあります。

 

イエスはこの話をこれまでに2度ほど弟子たちに話しています。

 

1度目。人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。(マルコによる福音書8章31節)

 

この時、ペトロがイエスにそんな話はしないようにといさめて、イエスから叱られています(8章32~33節)。

 

 

 

2度目。人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない。(マルコによる福音書9章9節)

 

この時、弟子たちはイエスが言われた復活について互いに議論しています(9章10~13節)

 

 

 

「弟子たちはこの言葉が分らなかった」(32節)には理由があります。弟子たちが伝統的に知っていたメシアとイエスとのギャップが大きかったからです。イエスの話は自分たちの考えるメシアとは真反対の話だったからです。

 

 彼らの信じるメシアはユダヤの王としてローマ帝国の屈辱的な植民地支配から解放してくれる強い王です。

 

 人々から捨てられ殺されることも理解できなかった。イエスがなそうとしていることが理解できなかったのです。

 

神が人々に犠牲を強いることはあっても、神が人々のために犠牲になることなど理解しがたいことでした。「古代の哲学者は、憐れみや愛惜の情を病的と見なし、合理的な人間がもつべきでない性格的欠陥とした。憐れみの情から、相手に値しない支援や救済がもたらされるのは正義に反すると考えた。」(「キリスト教とローマ帝国」より)のです。その思想の影響を彼らも若干なりとも受けていたと思います。

 

イエスの十字架の死と復活を見るまでは理解できなかった彼らが理解したのは、「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマの信徒への手紙4章25節)と言うことでした。

 


2017年12月24日(日)

 

「大切なあなたのためのクリスマス」 ヨハネによる福音書3章16節

 

 

 

 メリークリスマス クリスマスの祝福があなたに届きますように。

 

 

 

「神は、その独り子(イエス)をお与えになったほどに、世を愛された。

 

独り子を信じる者が一人に滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

聖書は御子イエス・キリストの誕生をそのように語っています。

 

この聖書の言葉は続いてこのように言っています。

 

「神が御子(イエス)を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(1718節)

 

 

 

「信じない者は既に裁かれている」とはどういう意味でしょうか。

 

聖書で使われている「罪」の本来の意味は「的外れ」です。

 

神は人間を創造された時、「極めて良かった」(創世記131節)と喜んで世に送り出されたのです。

 

しかし現実は、生きづらい社会の中でいさかいが絶えないのです。分かり合いたいのに、分かり合えない社会のなかで、何のために生まれてきたのか、何の役に立つのか、病気を抱えてどう生きていけばいいのか、生きる価値があるのか、子育てで悩み、人間関係で悩み、一人で抱えきれない重荷で自ら命を断とうとさえします。そして、自分を否み、他者を否むのです。そのような生き方は人間本来の「極めて良かった」から外れてしまった生き方です。

 

「既に裁かれている」とは、神が罰を与えるという裁きではなく、

 

神が言われた「極めて良かった」を受け入れることができない状態(自信喪失、自暴自棄など)のことだと思います。

 

 

 

神は的外れな世の中にイエスを差し出し、イエスは的外れな人間の手によって十字架に架けられて殺されました。「神は、その独り子(イエス)をお与えになったほどに、世を愛された。」とは、人間の手によって殺されることもいとわないぐらい、神が命がけであなたを守るとのメッセージを読み取ることができます。

 

「永遠の命を得るためである」とは、あなたの命は大切な命だという強烈なメッセージの中で生きることではないでしょうか。

 

「信じる者」「信じない者」とは、神からのそのメッセージを「受け取る」か「受け取らない」か、と言う私たちに向けられた言葉です。

 

 

 

クリスマスの祝福があなたに届きますように、と最初に語りました。

 

それは、クリスマスの祝福をあなたにも受け取ってほしいという願いでもあります。

 


2017年12月17日

 

「子ろばに乗って」 ゼカリヤ書99

 

 

 

キリスト教暦で、きょうは第3アドベントです。アドベントキャンドルに3本火が灯りました。

 

 

 

アドベントの間の主日は旧約のイエスの誕生に関する預言より学んでいます。

 

2週の礼拝説教で取り上げた預言の聖書箇所(イザヤ書9章5~6節、ミカ書5章1~2節)では、メシアはユダヤの王としてお生まれになるとありました。そのお方の王としての姿を預言したのがきょうの箇所です。

 

 

 

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた 高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」

 

 

 

預言者ゼカリヤの預言は紀元前520年ごろです。

 

見よ、あなたの王が来る。その王はろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って、と預言しています。高貴な者、身分の高い者、祭司たちも、そして王もろばに乗っていました。馬は軍事用で、ろばは平和の象徴でもありました。雌ろばとは、らばのような雑種ではなく、純粋種であることを表しています。子ろばは、まだだれも乗せていないろばです。

 

 

 

この箇所はイエスがエルサレムに入場なさった時、成就しました。

 

 イエスは弟子たちに命じて子ろばを借りて来させて、子ろばに乗ってエルサレムに入場されました。

 

このことは4つの福音書(マタイによる福音書21章1~11節、マルコによる福音書11章1~10節、ルカによる福音書19章28~36節、ヨハネによる福音書12章12~16節)それぞれに記されています

 

群集は預言のとおり歓声をあげてイエスを迎えています。

 

しかし、その後そんなにたたないうちにイエスは捕らえられ、十字架に掛けられ殺されてしまいました。

 

イエスの存在が目障りな祭司たちや律法学者たちにプロパガンダされた群集は「王様、万歳」と歓呼していたのに、同じ口で「イエスを十字架につけろ」と叫んでいます(マルコによる福音書15章6~15節、ルカによる福音書23章1~25節)。

 

群集の多くは一部の人間の過激な声によって先導されてしまったのです。だからと言って、彼らに責任がないわけではありません。

 

 

 

私たちはイエスが「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)と十字架の上で祈っておられたことを忘れてはならないのです。

 

 

 

「わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ」(10節)とゼカリヤの預言は続いています。

 

「平和の君」としてくださった方を殺してしまうぐらいの薄っぺらい平和を打ち砕き、真の平和をつくりだすことができるのはイエスだけなのです。

 

 

 


2017年12月10日

 

「いと小さき者」 ミカ書5章1~2節

 

 

 

キリスト教暦で、きょうは第2アドベントです。アドベントキャンドルに2本火が灯りました。

 

 

 

アドベントの間の主日は旧約のイエスの誕生に関する預言より学んでいます。

 

先週は預言者イザヤの預言より学びました。きょうはミカ書より預言者イエス誕生の預言を学びます。

 

イザヤ書同様にイエス誕生の七百数十年前の預言です。

 

 

 

エレミヤ書にミカの預言の言葉が載っています。

 

「モレシェトの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、ユダのすべての民に預言して言った。『万軍の主はこう言われる。シオンは耕されて畑となり エルサレムは石塚に変わり 神殿の山は木の生い茂る丘となる』と。」(エレミヤ書26章18節)

 

 

 

「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。

 

お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。」(1節)

 

ヘロデ王にメシアの誕生の地を聞かれた祭司長や律法学者たちはミカのこの預言を引用してベツレヘムであると答えています。その預言の通りにベツレヘムでイエスは誕生しています。(マタイによる福音書2章1~12節)。

 

エフラタはベツレヘムの別名です。「小さい」は「つまらない、若い」などの意味もある単語です。

 

「ベツレヘムよ」と呼びかけ、「お前は決して小さくないよ。あまりにも小さいかもしれないけれど、神の祝福の中にあります。なぜなら、この地でメシアが誕生するからだ」と預言しているのです。

 

「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」を新改訳聖書は「その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」と訳しています。

 

 神がメシア誕生の地として太古の昔から定めておられたというのです。

 

あえて神がこの地を選ばれたのであれば、そこには神の明確なメッセージがあるのです。

 

パウロはコリントの教会の中でしいたげられている者たちがいるのを知って、共同体を人間の体にたとえて「要らない部分」などないことを教えています。

 

その中で、「『お前(たち)は要らない』とは言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(コリントの信徒への手紙一 13章21~22節)と書いています。

 

 

 

また、パウロは自分が病気のことで悩んでいた時「主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われた」経験をもとに、だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょうと、コリントの教会に宛てた手紙の中で書いています(コリントの信徒への手紙二 12章9節)。

 


2017年12月3日

 

「ひとりの乳飲み子」イザヤ書9章5~6

 

 

 

キリスト教暦で、本日からクリスマス前日までアドベント(待誕節)になります。

 

きょうは第一アドベントです。アドベントキャンドルに1本火が灯りました。

 

 

 

アドベントの間の主日は旧約聖書のイエスの誕生に関する預言より学びます。

 

 きょうの聖書箇所はイエス・キリストの誕生を預言した箇所です。

 

預言者イザヤはイエスの生まれる七百数十年前に活動していた人物です。

 

 

 

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」(5節)と預言したイザヤは「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(714節)とも預言しました。天使はヨセフに妻マリアが身ごもることは預言の実現だと告げました(マタイによる福音書11823節)。

 

イエスが誕生した夜、天使が羊飼いたちに現れ、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるだろう。」(ルカによる福音書2章1112節)と告げ、その言葉通りに羊飼いたちは乳飲み子に会うことができました。

 

 

 

 イザヤはその男の子を「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれると預言しています(5節)。

 

 「驚くべき指導者」は別の訳では、「不思議な助言者」、また英語訳では「ワンダフル カウンセラー」などと訳されています。

 

 

 

 「平和の君」の「君」は皇族・王族、貴族の称号です。英語訳では、「プリンス」と訳されています。

 

メシアは第二のダビデと考えられていたのです(6節)。

 

 旧約聖書は血なまぐさい戦争の話がいたるところに書かれてはいますが、神がほんとうに求めておられるのは非暴力の平和です。

 

 

 

「地を踏み鳴らした兵士の靴 血にまみれた軍服はことごとく 火に投げ込まれ、燃え尽くされた。」(4節)

 

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣をあげず もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ書24節)

 

これが神の御旨であり、イエスがこの地上に来られた意味です。



2017年11月26日

 

「状況打破できない」マルコによる福音書9章14~19節

 

 

 

 本日の礼拝は世界祈祷週間礼拝です。

 

 きょうの聖書箇所は19節までを司会者に読んでいただきましたが、話は29節まで続いています。

 

この箇所で何が起こったかを簡単に説明します。

 

イエスが弟子3人と共に山に登っておられた時から話は始まります。

 

残った弟子たちのところへ、ろうあでてんかんの病気の息子をもつ父親が病気を治してほしいとお願いに来ました。あいにくイエスは不在でしたが、弟子たちは彼の申し出を引き受けます。

 

弟子たちはイエスがなされたように病気を治そうと試みますが、病気を治すことができませんでした。

 

病気を治すことができなかった弟子たちは律法学者から病気が治らなかったことを突っ込まれたようです。弟子たちと律法学者の間に議論が始まり、それを見ようと人だかりができました。

 

 そこへイエスたちが山からお戻りになり、事の事情を聞いたイエスは、病気の子を連れてこさせて、

 

病気を治されたのです。

 

 この箇所より3点お話します。

 

)イエスが不在の時、弟子たちに起こったできごと

 

イエスは「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」(19節)と言われています。

 

イエスはご自身が間もなく弟子たちと別れなければならないことを思い、自分がいなくてもしっかりやってほしいとの願いがありました。

 

 イエスが山に登っておられた時のできごとです。イエスが(霊的にはおられるが)自分たちの場所におられない点では私たちも同じです。

 

 

 

2)信じます。信仰のないわたしをお助けください。

 

父親がイエスに「おできになるなら」と懇願した時、イエスは「『できれば』と言うか、信じる者には何でもできる。」と答えます。それを受けて、父親は「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい。」と叫んでいます(24節)。

 

「信じます」と「信仰のない」は相矛盾しますが、揺れ動く父親の心境を良く表しています。

 

 病気を治してもらえると思ったからお願いしたのですが、弟子たちは治せなかった。

 

 父親の心に、イエスにも治せない、もしくは他の人たちは治しても息子は治していただけないのではないかという不安な思いがあったのではないでしょうか。

 

 一度祈りが聞かれなかった経験が私たちを不信仰にさせることはないでしょうか。

 

 

 

3)祈りによらなければ

 

弟子たちはイエスに「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか。」と尋ねています(28節)。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」(29節)と答えています。イエスが数々の病気を治す場面を見ていた弟子たちは自分たちにもできると簡単に考えていたのではないでしょうか。表面的なまねで内実がともなっていなかったのです。

 

できなかった理由を探すために彼らがしたことは議論でした(14節)。律法学者との議論ですか神学論争とも言えるでしょう。

 

イエスは必要なのは議論ではなく、祈りであると教えておられます。

 


2017年11月19日

 

「エリヤはすでに来た」マルコによる福音書9章9~13節

 

 

 

  一同が山を下るとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも

 

話してはいけない」と弟子たちに命じられた(9節)。

 

 

 

 今見たこととは何のことでしょうか。

 

 イエスがペトロとヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちだけを連れて高い山に登られたとき、イエスのお姿が変わり、そのところに旧約聖書に登場する偉人モーセとエリヤが現れてイエスと語り合った。そして、雲がわき起こって彼らを覆い、雲の中から「これはわたしの愛する子、これに聞け。」との声を聞いたできごとのことです。(928節)

 

 

 

イエスは弟子たちに山の上で起こったできごとを人の子(自分)が死者の中から復活するまでは、

 

今見たことをだれにも話すなと命じられます(9節)。

 

弟子たちは人の子が死者の中から復活する、の意味を理解することができませんでした。

 

それで、彼らは死者の中から復活するとはどういうことか議論し始めたのです。

 

イエスは以前も「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教えた」(831節)のですが、復活が理解されていなかったのです。

 

私たちはすでにイエスが復活されたことを聖書から読んで知っていますが、弟子たちはまだイエスの死も復活もこの時点では見ていないので、理解できないのは当然と言えば当然です。

 

弟子たちによく分からないことを語られるよりも、弟子たちには信じて確信をもって話せる日まで話すことをお許しにならなかったのです。彼らが信じた日はイエスの十字架と復活を自分の目で見る日です。

 

 

 

弟子たちはイエスに「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか。」と尋ねています(11節)。

 

マラキ書32324節などから、メシア(キリスト、救い主)が来る前にエリヤが来ることが語り継がれていたのです。

 

マラキ書32324節には「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。」と書かれています。

 

洗礼者(バプテスマ)のヨハネが語り継がれていたエリヤで、聖書に書かれているとおりとは王妃イゼベルによるエリヤの迫害(列王記上19110節)のことだと思われます。

 

人々は彼に好き勝手なことをしたと言っていますが、イエスはヘロデ王によるヨハネ殺害事件(61429節)のことを言われたのでしょう。

 

 

 

 先駆者ヨハネがヘロデ王によってむごたらしい殺され方をしたのだから、人の子はもっとむごたらしい殺され方をするのは仕方ないことである、とのイエスの覚悟の思いがここに表されています。

 

 


2017年11月12日

 

「これはわたしの愛する子」マルコによる福音書9章1~8節

 

 

 

ペトロが言葉を失ってしまうできごとに遭遇したお話です。

 

イエスが弟子のペトロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた時のことです。

 

弟子たちの前でイエスの姿が突然変わったのです。

 

着ていた服が真っ白に輝きだしたのです。この世のどんな職人でもここまで白くすることは無理だろうというところまでの白さだったと言います。

 

それだけでありません。エリヤがモーセとともに自分たちの前に現れ、イエスと何やら語り合っているのです(24節)。

 

あまりの驚きで弟子たちは腰を抜かしてしまうようだったのでしょう。

 

ペトロはそれで何を言って良いのかわからずに、イエスに、ここにいることはすばらしいことです。ここに幕屋を3つ造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのために(956節)と、ほとんど意味のなさないことを口走ってしまったほどです。

 

すばらしいこの姿がイエスの本来あるべき姿なのでしょう。

 

しかし、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようと思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピの信徒への手紙267節)そして、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」(イザヤ書532節)となられたのです。

 

 

 

その時、雲が現れて彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、これに聞け」(7節)と雲の中から声がしたのです(7節)。

 

「これはわたしの愛する子」は、すでに一度語られた声です。

 

一度目はイエスがバプテスマ(洗礼)を受けられた時です(1911節)。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。この後、イエスは公の宣教の働きに入るために荒野において4040夜の断食をしています(21215節)。そして、今回が2回目です。どちらもイエスにとって大事な時期です。イエスはまぎれもなく神から愛されている子だったのです。

 

しかし、そのイエスを神は十字架の死へと向かわせられたのです。そして、私たちが、イエスがこの声を一番聞きたかったのではなかろうかと思う十字架上で、神は「これはわたしの愛する子」という声をおかけになっておられないのです。神は無言でした。

 

 

 

毎土曜日夜1140分から、フジテレビで「さくらの親子丼」が放映されています。

 

大田区にある古本屋「九十九堂」の店主さくらさんが主人公です。

 

ここは行き場のなくなった人たちが集まるたまり場になっていました。さくらさんは来た人たちに必ず無料で親子丼を作ってあげていました。なぜ、親子丼を作っているのか、その理由は16年前に17歳で殺された息子の大好物だったからです。ファミレスでバイトをしていた息子は、ファミレスでわが子の泣く声にいらついたシングルマザーが持っていたステーキナイフでわが子を殺そうとしたのを止めに入って刺し殺されてしまったのです。

 

その時助かった赤ちゃんが16年後さくらさんの家で居候することになります。

 

不良少女があの時の赤ちゃんだと分かったさくらさんは、自分の愛する息子が命をかけて守った命だから私もこの子の命を守ってあげたいと考えるのです。

 


2017年11月5日

 

「自我に死ぬ」マルコによる福音書8章31~38節

 

 

 

きょうの箇所は先週のできごと(82730節)の続きになります。

 

フィリポ・カイサリアにイエスと一行が行かれた時、イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われて、ペトロが「あなたは、メシア(キリスト)です。」と答えた話です。

 

 

 

すると、イエスはご自分のことを言い始めます。「人の子(好んでご自分のことをこのように呼んでおられた) は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」とはっきりと言われたのです(3132節)。

 

 

 

それに対するペトロの応答が問題になりました。

 

ペトロがイエスをわきにお連れして、そんなことは言うものではありません、といさめ始めたのです。

 

ペトロは「あなたこそメシア(キリスト)です。」と告白をしています。しかし、イエスが話されたことが彼の理解していたメシア(キリスト)とはかけ離れたものだったのです。

 

 

 

それに対するイエスの再応答の前半部分が説教の中心のお話になります。

 

イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」と言われた(33節)とあります。

 

「サタン。引き下がれ」とはひどい言葉のように感じますが、サタンがイエスを神の子、救い主と知っていて(1章34節)イエスを退けた(121節~28節、3712節、5120節、など)のとペトロが変わらない発言になっていたからです。

 

更に、荒野で4040夜の断食と祈りをなさった時のイエスを誘惑してきたサタン(11213節)と同じだと見て取ったのではないでしょうか。

 

サタンはイエスを惑わし、人類の救いを邪魔しようとしたのですが、イエスはペトロもサタンと同じだと取られたのです。

 

ペトロはイエスをメシア(キリスト)であると理解できていますが、それはイエスが言われたようなみじめで弱々しく、神と人に捨てられるようなメシア(キリスト)ではありえなかったのです。

 

彼らはイエスが天下を取られる。その時には、自分たちをそれなりのポジションにつけてくださるだろうと、期待していたのです(103537節)。

 

彼らにあるのは神の思いではなく、自分たちのことでした。イエスが言われたようなことがイエスの身に起こるならば、当然その災難は弟子である自分たちにもふりかかるだろうと思ったのではないでしょうか。

 

ペトロの言葉は神の恵みは受けたいが、神のために苦難に遭うのは嫌だという思いからでした。

 

だから、イエスはみんなに向かって「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(83435節)と言われたのです。

 

 私たちが犠牲を払う信仰生活は嫌だと思った時、イエスのペトロへの言葉が私たちへの言葉にもなるのではないでしょうか。

 

 

 


2017年10月29日

 

「知識と信仰」マルコによる福音書8章27~30節

 

 

 

 きょう選びました聖書の箇所は30節までですが、9章1節までを一かたまりで見ることもできます。

 

今日の話はイエスがフィリポ・カイザリア地方に弟子たちと行かれた時のことです。

 

フィリポ・カイザリアはヘロデ王の子が領主となっていた地です。ヘロデはこの地にローマ皇帝アウグストゥスの神殿を建てています。フィリポは皇帝に敬意を表して町の名をカイザリアと名付けています。

 

しかし、カイザリアの地名は地中海沿岸にもありましたから、区別するのに自分の名前を付け加え、町の名をフィリポ・カイザリヤとしました。

 

ここにはギリシア神話の多産の神パンを祭る神殿もありました。

 

 

 

この地でイエスは弟子たちに自分が誰であるかと質問されたのです。

 

ここから2つの点をお話します。

 

 

 

1)知識

 

イエスは弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」と尋ねました。

 

これは世間一般の知識を問われています。

 

弟子たちは「洗礼者(バプテスマ)ヨハネと言う者もいますし、預言者エリヤだと言う者もいますし、預言者の一人だと言う者もいます」と答えています。その答えは根拠の薄い言い伝えであり、うわさのたぐいのものでした。間違った知識です。しかし、ヘロデ王は間違った知識でイエスを自分が首をはねて殺したヨハネが生き返ったのだと恐れたのです(6章14節~29節)。

 

 

 

2)信仰

 

イエスが次に質問したのは、知識ではありません。「あなたがたは、私を誰だと言いますか」と質問されています。

 

その問いに、ペトロが代表して「あなたは、メシア(キリスト)です。」と答えています。

 

イエス・キリスト、あるいはキリスト・イエスと呼ばれる場合もありますが、間違った知識で、キリストも名前の一部だと思っている方がいます。

 

キリストは、ヘブライ語「メシア」のギリシア語訳です。もともと、「油を注がれた者」と言う意味で、

 

王とか祭司とか預言者の名称として使われていたのですが、時代と共にイスラエルそして人類を救う救世主(救い主)と言う意味で使われるようになったのです。

 

イエスはヘブライ語のヨシュアの短縮の形のギリシア語読みです。「ヨシュア」は「ヤハウェ(神の名)は救い」という意味です。

 

ペトロは外国色の強いフィリポ・カイザリアでこの告白をしたのです。知識の披歴なら容易にできますが、自分にとってイエスは何者か問われているのです。驚くべき告白なのです。

 

賛美歌に「十字架!わが力」というのがあります。私は子どもたちと歌うときにはふりをつけて歌います。十字架、十字架、わが救いの歌詞ではドジョウすくいのポーズをとります。私たちの人生のすべて(罪も悩み苦しみもすべて)すくい上げてくださるのがキリストだと思います。

 

 

 

ところで、あなたが家族や隣人のいるところで、イエスから「わたしを誰と言うか」と聞かれたら、何と答えますか。

 


2017年10月22日

 

「少しずつ見えるようになる」マルコによる福音書8章22~26節

 

 

 

 きょうの聖書の箇所はイエスによって目の見えない人が癒されたお話です。

 

7章には、イエスによって耳が聞こえず、話すことができない人が癒された話が載っています(7章3137節)。また、そのほかにもイエスが病人を癒された話は何度も出てきます。

 

きょうの話には他の癒しの話と似ている点と、違う点がでてきます。

 

今回は違う点から学びたいと思います。

 

 

 

この箇所は、このような話です。

 

舟でベトサイダにイエスたち一行が着きますと、人々が一人の盲人を連れて来ます。

 

ベトサイダはペトロなどの出身地です(ヨハネによる福音書144節)。イエスも何度も立ち寄られている村です。イエスが上陸するとすぐに、人々はイエスに病人に触れて欲しいと願いでます。

 

イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、彼の両目に唾をつけ、両手をその上に置き、「何か見えるか」と聞きました。すると、彼の目は見えるようになっていて、「人間が見えます。木のようですが、

 

歩いているのが分かります。」と答えています。その後で、再び両手を彼の両目に当てられると、良く見えるようになりました。そこで、イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰らせた、という話です。

 

 

 

他の癒しの話と大きくちがう点は、イエスが病人に治り具合をお聞きになっている点です。

 

イエスが病人に治り具合をお聞きになったのは、ここだけです。それは、私たちに貴重なことを教えてくれています。

 

 

 

 私たちは、この彼の目が見えないのを霊的な目、すなわち信仰の目と考えてみても良いと思います。

 

視力の回復に一瞬ではなくここには明らかに時間の差があったことを教えています。

 

また、段階があったことを教えています。

 

最初はぼんやりとしか見えていなかったのです。

 

木と人間の違いが分かっていない、かろうじて動いているので、木ではなく、人間だろうと判断しているのです。神をぼんやり信じることができる程度ということでしょう。

 

心に思い煩いを持った方が教会の礼拝に初めて出席されました。この方は何度か礼拝に出席されるに従って、少しずつ何だかわからないが気分が晴れてきました。それで、礼拝に出席することを止められました。

 

この方のように、私たちは少し良くなったらもう結構ですと、イエスの手を振り払ってしまうことはないでしょうか。

 

また、イエスを信じたら一瞬で霊的成長をできるものと期待する方がいます。しかし、変わらない自分に失望して、教会から離れてしまう方がいます

 

神は段階を踏んで私たちを霊的成長へと導こうとされていることを覚えたいと思います。

 

今ぼんやりして見えなくても、はっきりと見えるようになることを信じていきましょう。

 

 

 


2017年10月15日

 

「理解していない」マルコによる福音書8章14~21節

 

 

 

 イエスと弟子たちが舟に乗っておられたときのことです。

 

弟子の誰かわかりませんが、お弁当のパンを持って来るのを忘れていたのに気づいたのです。

 

パンを忘れたことに気づく前は平然としていましたが、忘れたことに気づくと心が落ち着かなくなってしまいました。

 

ちょうどその時です。イエスが弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい。」と命じます。

 

お弁当のパンを忘れたことに気が行っていた弟子たちは、パンという言葉に敏感に反応して、イエスがパンを持って来ていないことを責めていると誤解したようです。

 

弟子たちはパンを持ってこなかったことで互いに言い争っています。

 

 

 

誤解されていることに気付いたイエスは、「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」(17節~18節)と、2度行われた給食の奇跡の時のことを話し、思い出させています。

 

 

 

 私はここから2つのことをお話します。

 

)持っていない物のことで頭がいっぱい

 

「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。」(17節)

 

弟子たちは持っていないという目の前の出来事でパニックになっています。

 

持っている物にではなく、持っていない物に私たちは不安を覚えます。

 

イエスが言われた「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか、覚えていないのか。」

 

18節)は霊的な目であり、霊的な耳であり、霊的なことです。

 

 預言者エリシャの従者がアラム王の軍隊が町を取り囲んでいるのを見て恐れた時、エリシャは「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、彼の霊的な目を開き、天の軍勢を見せたことが書かれています(列王記下6章)。

 

 

 

2)教えに気をつけよう

 

「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種」(15節)とは、彼らの教えのことです。

 

パン種はイースト菌のことで、その教えは増え広がるので注意するように忠告しています。

 

ファリサイ派の教え、ヘロデの教えは、彼らの持っている「律法」、「権威」で象徴されるような「こうあらねばならない」、「従え」というような抑圧的な教え(考え)です。

 

イエスのたとえ話に出てくるファリサイ派の人に自分たちの姿を見るようです(ルカによる福音書18章9~14節)。

 

また、物質的な目に見えることに心を囚われる成果主義的な教えです。

 

「人はパンだけでいきるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイによる福音書44節)

 

 

 


2017年10月8日

 

「確かな答えが欲しい」マルコによる福音書8章11~13節

 

 

 

 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からしるしを求め、議論をしかけた。

 

イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。

 

「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」

 

 

 

 天からのしるしが欲しいとは、神の力を見せてほしいということである。

 

イエスに、あなたが神から遣わされたメシアならば、それを証明するしるし(力)を見せて欲しい。

 

見せてくれたら信じましょう、と言っているのです。

 

 しかし、彼らはイエスが行った数々の癒しの業、わずかなパンと魚で4000人、5000人の人たちを満腹にされた業をみても信じなかったのです。

 

 

 

 わたしたちは自分の納得するしるし(あるいは自分に都合の良いしるし)でないとしるしとは認めないのではないでしょうか。

 

 

 

しるしを見て、あなたが本物の救い主(メシア)であるか、そうでないか、判断します。というのは、決めるのは人間側だと言っているに等しいのです。

 

 

 

 イスラエルの王アハブはユダの王ヨシャファトに、奪われていた地ラモト・ギレアドをアラム王から一緒に奪い返そうと提案します。その時、ヨシャファトは、それが神の御旨であるかどうかを預言者に聞きたいと申し出ています。アハブは預言者の中のひとりミカヤはいつも自分の気に入る預言をしてくれないので、ミカヤには聞きませんでした。しかし、ヨシャファトがアハブにこれで預言者は全員ですかと問うたので、アハブはミカヤの存在を告げなければなりませんでした。

 

存在を無視したミカヤの預言こそ神の御旨でした。なぜなら、ミカヤの預言どおりになったからです

 

(列王記上22章)。

 

 

 

コリントに宛てた手紙の中でパウロは次のように書いています。

 

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりの賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリントの信徒への手紙12225節)。

 

 

 

預言者イザヤの 「わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ書7章1314節)の預言の言葉は、イエスの誕生によって成就しました。

 

 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。

 

あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカによる福音書21112節) 

 


2017年10月1日

 

「再び」マルコによる福音書8章1~10節

 

 

 

 きょうの聖書の箇所の話は、イエスが7つのパンと小さなが少しでおよそ4千人たちを満腹させて、なお7つのかごにパンがいっぱい残った話です。

 

毎週の礼拝に出席されている方々のなかに、すでにこの話は2ヶ月ぐらい前に説教で聞いたと、記憶にある方がおられると思います。

 

 同じ話が6章30節~44節に出ています。著者は同じ話をなぜ再び書いているのでしょうか。

 

しかし、両方の話を見比べてみると、違いがあることに気づきます。

 

もちろん時と場所が違います。集まっていた群衆の数が違います。それ以外にも、前回は男だけで5,000人ですが、今回は4,000人です。パンと魚の数が違います。前回は5つのパンと2匹の魚でした。

 

今回は、パンが7つに、小さい魚が少しです。残った屑の量が違います。前回は、残ったパン屑と魚の残りは12の籠にいっぱいでした。今回は、残ったパンの屑は籠7つです。

 

違いがあるにしても、同じような話を再びなぜ載せたのか、疑問が残ります。

 

 

 

同じところがあります。そこを見てみましょう。それが再び書かせた理由ではないかと思います。

 

まず、弟子たちが「自分たちにはできない」というところです。前回は、「わたしたちが200デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか。」と、無理を言わないで下さいとの思いで、断っています。

 

今回は、「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」と断っています。断りの言葉は違いますが、弟子たちの「できない」ということでは同じです。

 

弟子たちの成長の跡を見たかったのですが、同じ失敗を繰り返しています。

 

 

 

もう一つ同じところがあります。

 

それは、イエスの憐れみと奇跡のわざが行われたというところです。

 

6章の話では、群衆を見て深く憐れんでおられたことが書かれています(34節)。今回は「群衆がかわいそうだ」とイエスが言われたことが書かれています。同じなのは、イエスの群衆を憐れむ心です。

 

それと、イエスがパンと魚を取り、賛美の祈りを唱えると、増えて大勢の人たちが食べて満腹しただけでなく、たくさんのパン屑が残ったというところです。

 

前回と今回を見比べて、弟子たちの成長のなさと、イエスの憐れみとみ業の素晴らしさが際立っていますが、ほんとにそれだけでしょうか。イエスの弟子たちのその後を見ますと、成長がはっきり見えなくても、信仰が成長していることがわかります。

 

例えば、使徒言行録3章に、ペテロたちが神殿において、生まれつき足の不自由な男を癒した話が記録されています。そのとき、「金銀はわたしにはない。しかし、わたしにあるものをあげよう。イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じると、男の足は癒されたという話です。

 

弟子たちの信仰は成長していたのです。それを可能にしたのは、(心もとないところもありましたが)イエスから離れず、従い続けたことです。

 

私たちの信仰も成長します。そして、それをイエスは願っておられます。

 

 

 


2017年9月24日

 「埋葬」創世記23章1~4節

 

 きょうの主日礼拝は「召天者記念礼拝」です。礼拝後、笠森霊園まで出かけ、墓前礼拝を行います。

 きょうの礼拝は、旧約聖書 創世記23章全体を通してお話します。

 

サラの生涯は127年であった。これがサラの生きた年数である。サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。

 

わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。(1~4節)

 

アブラハムはユーフラテス川下流の町ウルに生まれたが、神の声を聞き、父テラと甥のロトとともに故郷を離れハランにしばらく定住します。しかし、父テラが亡くなったのち、再び神の声を聞きカナンの地への旅にでます。そして、ヘブロンに定住することになります。その旅の途中で妻サラは亡くなったのです。

 

アブラハムはユダヤ人にも、クリスチャンにも重要な人物です。アブラハムとサラは長年連れ添った夫婦ですが、彼らは波乱万丈の人生を送っています。そのこともあって、「アブラハムは中にはいって泣き叫び、サラの死をいたんだ」(2節 「フランシスコ会訳聖書」訳)のではないでしょうか。

 

アブラハムは連れ合いのために埋葬地の購入を先住民ヘト人に申し出ます。最初ヘト人は無償で埋葬地を提供すると言ってくれました。しかし、アブラハムは自分で埋葬地を購入したいとゆずらず、理解を示したヘト人から土地を買い取り、サラを葬ります(23章5~20節)。

 

アブラハムは無償で譲り受けた土地でなく、自分で購入した土地にサラを葬ってあげたいと思ったのです。ヘト人エフロンが提示した金額の銀400シェケルはかなり高額な金額ですが。彼の言い値で買い取っています。アブラハムも同じ墓に葬られています(25章10節)。

 

 墓は故人が生きて来た証の場所とも言えます。記念碑(モニュメント)です。

 

「この神は世々限りなくわたしたちの神 死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。」(詩編48章15節)、「キリストが死に、そして生きているのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマの信徒への手紙14章9節)、「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピの信徒への手紙3章20節) 私たちは聖書からこのように考えます。墓に亡くなった方の霊がいるのではありません。亡くなった方の霊魂は肉体を離れ、私たちを造られた神のもとへと帰ります。

 

召天者記念礼拝は記念であって、供養(追善供養)ではありません。

 

召天者記念礼拝は、私たちにいのちを与え、この世に送り出し、また迎え入れてくださる神の愛に故人が抱かれていることを覚え、神を賛美し、故人を覚える礼拝です。

 

供養は追善供養と追善の文字があらわすように、生きている人が行う善行を持って、亡くなった人の善行になる、それがまた自分に戻ってくるという考え方です。

 

墓参りしてくれる遺族がいない方のために、永代供養というのがあります。「○○万円支払いで、永代供養致します」と、とても親切な制度のように思えますが、

 

供養してくれる人がいないと救われないとなれば、ある面残酷なことではないでしょうか。

 


2017年9月17日

 

「エッファタ」 マルコによる福音書7章31~37節

 

 

 

明日の9月第三月曜日は敬老の日で祝日です。各地でいろんな催しが行われます。

 

私たちの教会は敬老の日に近い日曜日の礼拝の中で高齢者の祝福を祈るときを持っています。

 

 

 

さて、きょうの聖書箇所は、イエスが耳が聞こえず舌の回らない(ろうあ)者をいやされた話です。

 

イエスがガリラヤ湖沿岸に来られた時、人々は耳が聞こえず舌の回らない者を連れて来て、この者の上に手を置いてくれるように願い出ます。

 

ところがイエスは人々の申し出たようにはしていません。

 

「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって『エッファタ』と言われた」(3334節)と奇妙なことをなさっています。

 

イエスは盲人の目をいやされる時にも唾を用いています(マルコによる福音書82226節、ヨハネによる福音書9章1~7節)。しかし、イエスが病気治療で必ず行う技法というのではありません。

 

魔術的技法と誤解されないように、マルコによる福音書の著者は「エッファタ」は呪文の言葉ではなく、アラム語で「開け」という意味ですとアラム語を知らない読者に教えています(34節)。

 

この聖書の箇所で大事なことは、イエスがどのような技法で癒しを行ったかではなく、癒しの出来事が何を意味するかです。

 

旧約聖書イザヤ書355節、6節の「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」という預言がイエスによって成就したと言うことが出来事の意味することなのです。

 

 イザヤ書3534節には、「弱った手に力を込め よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を、敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」とあります。

 

 高齢になると、目がかすみ、耳が遠くなり、手や膝が弱るなど、体のいろんな機能が失われてくる現実があります。

 

 きょうの箇所からイエスが高齢者を守り、救ってくださることを信じることができます。

 

 

 

 イエスは人々に癒しの出来事を誰にも話してはならないと口止めされたが、人々はイエスに口止めさればされるほど話したと書かれています(3637節)。

 

人々はイエスから話すなと口止めされているにもかかわらず、イエスのなされたことのすばらしさに気持ちを抑えきれずに人々に話しています。私たちは福音を話せと言われています。話して良いと言われている私たちは福音を話しているでしょうか。


2017年9月10日

 

「食卓の下の小犬」 マルコによる福音書7章24~30節

 

 

 

 「まず、子どもたちは十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます。」

 

 女とイエスの会話だけを読むと、イエスと女の禅問答のようです。

 

説教題もここから取りました。

 

 

 

 イエスは肉体的にも精神的にもだいぶ疲れておられたようです。イエスはだれにも会いたくなかったので、外国であるフェニキアのティルスの地方に行かれたのです。

 

ところが、イエスが来られていると、聞きつけた人たちがイエスの居場所を見つけだしたのです。

 

シリア・フェニキア生まれのギリシア人の女がイエスの所へ来てイエスの足もとにひれ伏したのです。

 

女の幼い娘が汚れた霊にとりつかれていたので、イエスに追い出して欲しいと、頼みに来たのです。

 

 そして始まったのが先ほどのイエスと女の会話です。

 

 

 

 イエスの言葉から見て行きましょう。

 

子どもたちのパンは、ユダヤ人の救いのことです。小犬とは、異邦人(外国人)です。

 

イエスは、ユダヤ人に救いを十分与えた後、次に異邦人に救いは与えるので、それまで待っていなさい。あなたの子どもを助ける時はまだ来ていませんと、言われているのです。イエスは疲れておられたので、ユダヤの地から離れた場所までわざわざ行って休んでおられたのです。休息の邪魔をした女に、いらだって、ユダヤ人が軽蔑で使う「犬」という言葉を用い、語調を強められたのかも知れません。

 

 

 

 女の返事を見て行きましょう。

 

 それに対して、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます。」と返事をしています。

 

 子どもはユダヤ人のことです。ユダヤ人のおこぼれをいただいてもいいでしょうと、女は機転の利いた返事をしています。

 

 

 

 見事な返事をした女に、イエスは「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言われています。この問答は女の神への祈りだと思います。私たちはこの箇所から、神に聴かれる祈りの極意を学ぶことができます。

 

①謙遜な祈り 女は救われるのは神の憐れみのゆえで、当たり前のことではないことを知っていました。

②引き下がらない祈り

 

 イエスの語られたたとえ話に、職務怠慢の裁判官の話があります。しかし、その彼がしつこく裁判を申し出る女のしつこさに根負けして裁判をしてやるというものです(ルカによる福音書18章1~8節)。

 

イエスは気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるためにこのたとえ話をされています。

 

③信じる祈り 

 

イエスの語った「悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」の言葉だけで、女は信じて家に帰っています。「女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」(30節)

 

イエスは「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」

 

(マルコによる福音書1124節)と教えています。

 


2017年9月3日

 「人の中から出てくるもの」 マルコによる福音書7章14~23節

 

 神の掟と人間の言い伝えの論争があった(7章1~13節)後、イエスは再び群衆に話しだします。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(15節)

 

 イエスの弟子たちはイエスのこの話の意味がわからなかったので、イエスに聞いています。

 

イエスは2つのことを弟子たちに答えています。

 

)食べた物は外に出されるだけ

 

「イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。『あなたがたも、そんなに物わかりが悪いのか。

 

すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。

それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」(1719節)

 

ここで訳されている「外」は、便所(トイレ)のことです。食べた物はおしっこ、うんちになってでていくだけだと、イエスは言われたのです。

 汚れた手で食べた食事で心が汚されるわけではない。そのような考えが人を汚すのですと、イエスは言われたのです(この場合の手洗いは宗教的な行いとしての手洗いで、衛生上の手洗いのことではありません)。

 

そのことはペトロが神から見せられた幻にも現されています(使徒言行録10916節)。

神はペトロに「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」と語っています。

 

)汚すものは外からではなく、心の中から

 

更に、次のように言われた。『人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。

みだらない行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、悪口(あっこう)、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て、人を汚すのである。」(2022節)

 

 イエスは「あなたがたは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(8節)「人間の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」(9節)と言い、そして一つの実例(1013節)をあげて見せ、そのほかにもたくさん行っていると言います。

 

 人間の心から出て来るものが、神の掟でさえねじ曲げ、無にしてしまう。恐ろしいものなのです。

 

 しかし、私たちはそのことにあまりに無頓着なのではないでしょうか。

 そして、自らの心の汚れを意識せず、安易に社会が悪い、教育が悪い、家庭が悪い、などと外側のせいにしていなかったかと、思います。

  また、神の掟(言葉)でさえ、人間の心の罪によって無にされてしなうのなら、どんなに良き教育も、環境も、同じように無にされてしまうのではないでしょうか。

 

私たちの心にもあることを認め、心の中の罪に向き合っていかなければならないのではないでしょうか。


2017年8月27日

 「受け継いだ言い伝え」 マルコによる福音書7章9~13節

 

 先週のお話の続きの箇所になります。

  ファリサイ派と律法学者たちは神の掟を厳格に生きようとした人たちです。神の掟を日常生活に適用できるように細かいところまで規定を作りました(私たちの中にも規則があると安心できるという人いますよね)。それが「人間の言い伝え」(9節)と呼ばれているものです。

 

 言い伝えの一つに、手を洗ってからでないと食事をしてはならない、というのがありました。

 

イエスの弟子たちが手を洗わずに食事をしているのを見た彼らはそのことが気に食わなかったのです。それで、彼らはイエスになぜ言い伝え通りに手を洗わないのかと詰問しました。

 それにイエスは答えたのが先週と今週の箇所です。

  イエスは「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(8節)と言われた後、その実例を一つ上げて話しています。

 

モーセに与えられた十戒の一つに、「あなたの父母を敬え」(出エジプト記2012節からの引用です)があり、また「父または母をののしる者は死刑に処せれるべきである」(出エジプト記2117節からの引用です)とあるが、あなたがたは、「もし、だれかが父または母に対して、『あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン(これはヘブル語で、訳すと供え物)』と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ」と言っているではないですか(親の扶養で金銭面などの面倒を見たくない時に、「コルバン」を使ったようです)。自分たちに都合の悪いことは、従わなくて良い規則を作っていたのです。それは、神の掟を軽んじること、捨てさることではないのかと、彼らの作りだした言い伝えが人間勝手であることを指摘しました。

  「コルバン」(神への供え物)自体は何ら悪くなくても、自分たちの都合の良いように用いるとき、神の掟、神の言葉から遠いものになってしまうことがあるということです。

  「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」(18節)と指摘されています。

  「自衛のための戦争」「国益」「積極的平和主義」「聖戦」「自己責任」「記憶にありません」「記録にありません」などもこれに当たるのかもしれません。

 

 イエスは「これと同じようなことを行っている。」(13節)と言われていますが、私たちのたくさんのコルバンを作っているのだろうと思います。

 

今一度私たちは私たちの言い伝えの教え(掟)が、神の掟と正反対の掟になっていないだろうかと吟味をしてみましょう。


2017年8月20日

 「汚れた手」 マルコによる福音書7章1~8節

 

「食事の前には手をしっかり洗いましょう」

 

食事の前にイエスの弟子たちが手を洗わなかったのを、ファリサイ派(ユダヤ教の一派)の人たちと律法学者が見て「なぜあなたの弟子たちは、汚れた手で食事をするのですか」と詰め寄った話です。

 

 今週と来週、前半と後半(7章9~23節)の2回に分けてお話します。

 トイレに入って手を洗わないで食事をする人もなかにはいますが不衛生です。

 しかし、きょうの聖書の話は、衛生上の理由ではなく、「昔の人の言い伝えに従って歩まず」と言っているように、風習に従っていないという理由からの詰問です。 

 

「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない、そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなく、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(3~4節)はユダヤ人の風習になじみのない人に著者マルコが説明している部分です。

 

 この場合の言い伝えは、律法(神の戒め)を日常生活に使えるように、厳格に守ろうとした結果生まれた言い伝えです。かなり細かいところまで規則(ルール)が決められました。その一つに食事の前には手を洗うというのがありました。厳格に守ろうと先頭に立ったのが、ファリサイ派の人たちであり、律法学者たちです。

 

 イエスは彼らの詰問に答えて、預言者イザヤはあなたがたのことを言っていますよ、と聖書の言葉(イザヤ書2913節)を引用しました(67節)。

 

「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」そして、イエスは、あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている、と言われています(8節)。

 

もともと神の掟に従いたいとの善意からつくられた言い伝えが神の掟から離れてしまう結果になったのですから皮肉なことです。

 

1)神の掟か、人間の戒めか

 

「あなたがたは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(8節)

 神の掟を守るよりも人間の言い伝え(人間の掟)を守ることに熱心になったのです。

 

2)神の掟に立ち返れ

 ポニーテールを校則で禁止している中学、高校が話題になりました。禁止の理由はうなじが色情を注ぐからだそうです。

 

千代田区一番町にあるキリスト教主義の中高一貫校女子学院の初代院長は矢嶋楫子(かじこ)です。三浦綾子は彼女をモデルに伝記小説「われ弱ければ」を書いています。当時校則という校則を、すべて取り払い、「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と生徒たちに語ったところが印象的です。

 

3)神の掟

 

 モーセの十戒(出エジプト記20章1~17節)、イエスの教え(ルカによる福音書102628節)


2017年8月13日

 

「触れる者」 マルコによる福音書6章53~56節

 

 

 

 男5000人、女、子どもの人数を加えるとすごい人数になります。これほどの大群衆をイエスは5つのパンと2匹の魚だけで満腹にしたあと、弟子たちを舟で向こう岸に渡らせ、群衆は解散させたあとの出来事がきょうの聖書箇所です。

 

 

 

 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。

 

一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って(気づいて)、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床(担架)に乗せて運び始めた。

 

村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

 

 

 

 長く血が止まらない病気で苦しんでいる女性はせめてイエスの衣服にでも触ればいやされると思い、

 

触ったという話がありました(マルコによる福音書52534節)。

 

触れば治るという民間の中で信じられていた迷信です。しかし、迷信だからと、簡単に片づけられないものがそこにはあります(触れる、あるいはこすることで病気が治るというご利益宗教でもありません)。

 

 

 

 なぜなら、イエスご自身も触っていやしをなさったからです。

 

熱病で苦しむペトロのしゅうとめのそばに行き、手を取って起こされると、熱が去り、いやされた

 

(マルコによる福音書12931節)。

 

重い皮膚病を患っている男性に手を差し伸べて、この人に触れていやされた(マルコによる福音書1

 

4042節)。

 

 

 

 イエスは、いやしだけではなく、祝福を与えるとき、手を置いています。

 

たとえば、子どもたちを祝福するとき、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された(マルコによる福音書101316節)。

 

 

 

 迷信では片づけられない、説明がつかないことが「触れる」ということにはあるのではないでしょうか。

 

 私たちは体が痛むとき、痛む所に手を置いてさすることをします。

 

 三浦綾子さんのエッセイ「なくてならぬもの」に手当というエッセイが載っています。 

 

綾子さんが顔に帯状疱疹で入院中、光世さんは毎日病室に来ては手をかざしてくれたということが書かれています(グチュグチュした顔に手を当てられないので、かざした)。

 

 

 

患者の不平に、医者が患者の方を見ないで、パソコンのモニターだけを覗き込み病気の説明をする。

 

ちゃんと自分の目を見て話しをしてほしいということを聞いたことがあります。

 

 触る、触られるというのは、(マナーやモラルを逸脱してはいけませんが)人と人、神と人との結びつきの大切さをあらわしているのではないでしょうか。触れる肉体を持った存在が触ることで意識することは大切です。

 

ネット(電波)で触れている(つながっている)と思い込む現代人への警鐘でもあります。


2017年8月6日

 

「湖上を歩くイエス」 マルコによる福音書6章45~52節

 

 

 

 イエスが男だけでも5000以上の人々を5つのパンと2匹の魚をもってお腹いっぱいさせ、なお食べきれない食べ物が12のカゴにいっぱいになったというできごと(6章3444節)の後のお話しがきょうの聖書箇所です。

 

 集会が終わった後、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませ向こう岸のベトサイダに行かせます。また、イエスは群衆を解散させ、ご自身は祈るために山へ行きます。

 

 イエスが祈っておられる間、弟子たちの舟は逆風によって湖の真ん中で進まなくなっていました。

 

夜明け頃祈りを終えられたイエスは湖を歩いて渡られます。弟子たちの舟は夕刻に出発したのに、まだ湖の真ん中で悪戦苦闘をしていました。夕刻から明け方までですから、数時間の間、漕ぎ悩んでいたことになります。

 

 湖を歩いて渡っておられたイエスは弟子たちの舟の横を通り過ぎようとされます。

 

 夜が明けきらない薄暗い中です。何かえたいの知れない物が湖の上にいるのに気付いた弟子たちは、びっくりして「幽霊だ、化け物だ」と叫び出したのです。

 

 イエスは怯えている弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れる事はない。」などと声をかけます。

 

弟子たちがイエスだとわかり安心したところで、イエスが舟に乗り込むと、風が止み、湖は静かになりました。そして、舟は無事に向こう岸に到着しました(53節)。

 

 弟子たちはこの一連のできごとに非常に驚いたとあります。

 

それは、「パンの出来事を理解せず、心が鈍っていたからだ」と手厳しい指摘をマルコの著者はしています。

 

1)「強いて」(45節) 

 

 イエスのご命令で弟子たちは舟を出したのです。イエスのご命令でも、事が順調に運ぶとは限らないことがあるのだということです。

 

 私たちの人生も神のご命令だと信じて歩んでいるのに、順風満帆ではないことがあります。

 

 

 

2)「弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを(陸地で)見て」(48節)

 

 イエスと弟子たちが陸地と湖(海)と別の場所にいても、イエスは弟子たちを見ておられたのです。

 

イエスと私たちとは天と地と場所は違いますが、見ておられるのです。

 

 漕ぎ悩んでいる時、突如えたいの知れない物が現れたのですからとてもびっくりしたのはわかります。

 

湖上を歩かれたのが、イエスのいたずらだとしたら、面白いですよね。「幽霊だ、化け物だ」と叫んだ弟子たちに「しめしめうまく行った」、と内心思われたかも。

 

弟子たちはイエスだとわかったとき、緊張はほぐれたのではないでしょうか。

 

 

 

3)「そばを通り過ぎようとされた」(48節)

 

漁師をしていた弟子たちでさえ漕ぎ悩んだのですからたいへんあわてていたと思います。

 

弟子たちが漕ぎ悩んだとき、彼らが神に助けを求めて祈ったとは書かれていません。

 

イエスは舟のそばを通り過ぎようとしています。私たちがイエスを感じるのは、イエスの完全ではなく、この時の弟子たちのようにそばを通り過ぎようとするイエスのようにかすかにということかもしれません。イエスを感じた時、「パンの出来事を理解せず、心が鈍っていたからだ」を思い出しましょう。


2017年7月30日

 

「すべての人に」 マルコによる福音書6章35~44節

 

 

 

 イエスは男性だけで5000人以上いる群衆を5つのパンと2匹の魚だけで満腹にさせて、なおたくさんん残ったという物語です。

 

 マタイ、ルカ、ヨハネの福音書にも載っている有名な話です。

 

 

 

 イエスの話を聞くために人里離れた場所に大勢の群衆が集っていました。時間もかなり経ち、夕暮れになりました。弟子たちがイエスに彼らを解散させるように願いでます。

 

弟子たちの群衆への思いやりだと思います。

 

 ところが、イエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃったのです。

 

弟子たちは納得できません。イエスの命令が常識はずれだったからです。

 

 パンを買うのに、200デナリオン以上の金額が必要です。当時1デナリオンは1日の日当に当たります。

 

弟子たちがこんな金額持っているわけはないし、5000人以上のパンを売っているお店もないでしょう。

 

また、買うことができても、万が一5000人以上のパンをどうやって運ぶことができるでしょう。

 

イエスに弟子たちができないと言うと、今度は「パンは幾つあるのか、見て来なさい。」とおっしゃいました。弟子たちは群衆に声をかけ、5つのパンと2匹の魚を持っている少年を見つけます(少年のことは

 

ヨハネの福音書に載っています)。

 

 イエスがそれを受け取り、祝福して配ると、皆満腹して、なお12カゴいっぱいのパンが残ったのです。

 

 

 

1)人為的・合理的解釈か、奇跡か

 

 ヨハネの福音書には、5つのパンと2匹の魚を持っていたのが少年だったと書いています。

 

少年が差し出したのを見た他の人たちが自分たちの持っていた弁当を差し出したという理解です。

 

 おとなは自分の弁当を持っていても、こんな少しで何の役にも立たないだろうと差し出すことをためらっていたのが、子どもの行為に触発されたとは、ありうる話です。しかし、群衆が差し出したものだけで、5000人以上の人たちをまかなうことができたとは信じられません。

 

 「イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせ、2匹の魚も皆に分配された」結果の出来事なのです。これが事実なのです。

 

 三浦綾子さんの「光あるうちに」にジョージ・ミューラーのことが書かれています。

 

ここに書かれている彼が経営している孤児院で実際に起こったことは私たちを興奮させてくれます。

 

 

 

2)神の愛と奇跡

 

 なぜ今その奇跡が起こらないのか、と疑問は当然でると思います。

 

現代でも、祈れば同じことが起こるという単純な話ではないのです。

 

私たちが期待すべきことは、再び同じ奇跡が行われることを期待することではありません。それは、神のみ心によることです。

 

私たちが信じなければならないことは、

 

①神はそれを行うとができるのだということを信じることです。

 

②イエスは、群衆に霊的な食事だけでなく、肉的な食事を与えることを望まれました。

 

 イエスは良い羊飼いのように羊を養うことを願っておられるということを信じることです。

 

③イエスの手にゆだねるとイエスが業をなされることを信じて、イエスに願い、頼ることです。

 


2017年7月23日

 

「深く憐れみ」 マルコによる福音書6章30~34節

 

 

1)使徒が遣わされたところ

 

「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、12人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。」(667節)、「12人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」(61213節)

 

「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」(30節)

 

彼らが遣わされた場所がどのような場所であるかを聖書は、描写によって私たちに伝えています。

 

それが、使徒たちが遣わされた時と戻って来た時の話に挟まれて出てくる話です(1429節)。先々週の説教箇所です。

 

 ヘロデ王のスキャンダルから派生した殺人事件がここには書かれています。

 

それは、倫理観が欠如した世界、言論が弾圧される世界、罪なき者が死に追いやられる世界、官僚が上に立つ者の言いなりになっている世界です。トップの腐敗が民衆を苦しめている世界です。

 

ヘロデという上に立つ者(トップ)によって民衆がどのような世界に生きているかがわかります。

 

 

 

2)深く憐れみ

 

イエスはそのような「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(34節)

 

「深く憐れみ」は「はらわたのちぎれる想いに駆られた」(佐藤研訳聖書)と訳されるような重い言葉です。

 

 

 

 イエスは上に立つ者に対して次のように語っています。

 

「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」(ルカによる福音書222526節)

 

 

 

 イエスはご自身を羊飼いにたとえて次のように語っています。

 

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネによる福音書1011節)

 

 

 

「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(1014節)

 

 

 

「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(1016節)

 

 

 

 

 


2017年7月9日

 

「罪におびえる」 マルコによる福音書6章14~29節

 

 

 

あらすじ

 

ユダヤの領主ヘロデ・アンテパスは自分の妻を追い出し、腹違いの兄弟の妻ヘロディアをそそのかして離縁させ、自分の妻としていたのです。ヨハネは、ヘロデにその結婚が違法(レビ記1816節)であると進言します。ヘロデは罪を認めるどころか、進言したヨハネを逆恨みして、牢屋に入れてしまいます。殺害することまでは躊躇していました。ところが、自分の誕生日を祝う宴会でヘロディアと前夫の間に生まれた娘サロメがお祝いの踊りを踊ったことで事件は起こります。たいそう気分を良くしたヘロデはサロメに褒美に何が欲しいか、と聞きます。聞かれたサロメは母と相談して、ヨハネの首を褒美に欲しいと願いでます。

 

ヘロデは来客らの手前、衛兵に命じヨハネの首をはね、殺害します。ヨハネの首は盆に載せられ、衛兵からサロメに、そして母に渡されます。ぞっとする話です。

 

 ヘロデはイエスの噂を聞いて、「自分が首をはねて殺した洗礼者ヨハネが生き返ったのだ」と思ったのです。あの時のことを忘れることができなかったのです。

 

 

 

1)罪におびえる

 

 ヘロデはヨハネを正しい人と認めており、ヨハネの語る話も非常に当惑しながらも、喜んで聞いていたのです。だから、殺害まではできなかったのです。非常に当惑していたのは、自分たちの結婚が正しくないことをわかっていたからです。罪を理解していたのです。罪に鈍感だったのではありません。世の中には罪に鈍感で、罪を理解できなくて、自分のしたことを自慢、吹聴し、被害者とその家族を苦しめ続ける人さえいます。

 

ヘロデはそこまで罪に鈍感ではなかったので、イエスを自分が首をはねて殺したヨハネが生き返ったのだと思ってしまったのです。

 

 

 

2)悔い改め

 

ユダヤの王にダビデ王という有名な王がいました。彼は王宮から中庭で水浴している人妻を見つけ、王宮に呼び寄せ、床を共にします。女が妊娠したとの知らせを受けたダビデは、隠ぺい工作をします。隠ぺいに失敗したダビデは夫を戦場の最前線で敵軍によって殺させるように次の計画を立て、戦死させ、そして女を自分の妻とします(サムエル記下11章1~12章)。ダビデもここまではヘロデと同じです。

 

ヘロデは罪に向き合おうとしないで、ヨハネを殺害することで罪から逃れようとしました。

 

しかし、ダビデは預言者を通して事の一部始終を神は御存じであることを知らされると、神の前に「わたしは主に罪を犯した」と告白し、悔い改めます。そこが、ヘロデとダビデとの違いです。

 

 

 

さだまさしさんの唄に「償い」というのがあります。

 

交通事故を起こした男が残された被害者の妻に赦してもらえるまでひたすら償いをする実話を基につくられた唄です。

 

ヘロデは自分の犯した罪とどのように向き合っていったのか。

 

ダビデは自分の犯した罪とどのように向き合っていったのか。

 

ダビデは「わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。」(詩編515節)と詩っています。

 


2017年7月2日(日)

 「足の裏のほこり」 マルコによる福音書6章7~13節

 

 きょうの箇所はイエスが12人の弟子を伝道に派遣する話です。

 

「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、12人を呼び寄せ、二人ずつ組に

 

して遣わすことにされた。」(67節)

 

イエスに従って来た人たちは12人以外にもいましたが、特にイエスはこの12人をそばにおかれています。

 

1)神への信頼

 

「その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖1本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は2枚着てはならない』と命じられた。」(7~9節)

 

必要最低限のものだけを持って行くように、後は神の力を信じて行くようにということです。

 わたしたちはいろいろ起こりうることを考えるあまり、持っていないことで不安になります。

 神は干ばつの時カラスとやもめとによってエリヤを養わせています(列王記上17章)。

 パウロは「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」と言っています(フィリピ412節)。

 

2)精一杯、そして後は神に任せる

 

「また、こうも言われた。『どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、

 そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏のほこりを払い落しなさい。」(1011節)

 今のように、どこにでもホテルや旅館など宿泊施設がある時代ではありません。旅人は民家に泊めてもらうのが普通でした。旅人をもてなすことは良いこととされていました。

 しかし、イエスの弟子だということで拒否する家もありました。神の国の福音の話も聞いてもらえない家もありました。また、聞いても、理解してもらえず、信じてもらえない家もありました。

 その時には、イエスは「そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落しなさい。」(11節)と命じています。足の裏の埃を払い落す行為は、自分たちの言うべきこと、やるべきことは行いました。後はあなたがたの問題で私たちには関係ないことです、という証しの印です。

  私たちは福音を語ること、伝えることはできます。しかし、信じさせることはできないのです。

 

私たちに「12人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」(1213節)


2017年6月25日

 

「人々はイエスにつまずいた」 マルコによる福音書6章1~6節

 

 日本バプテスト連盟に属する教会では、きょうから1週間を神学校週間として覚えています。

 

 

 

 日本の場合、家族、親族の中で自分一人がクリスチャンという方も多いと思います。

 

実家が地方の古い因習が根強く残っているところなら、少なくなったとは言え、クリスチャンになることに反対されるケースもまだあります。「あなたの家は仏教でしょう。家の跡継ぎがいなくなる。お墓はだれが守るの。先祖のご供養はどうするの。親戚になんと言えばいいの。」とか、いろんな心配事を言われたりします。

 

 イエスを救い主と信じていても、クリスチャンになる決心がつかない原因になっている方もいます。

 

 イエスのこの話は、そんな方に慰めと勇気を与えてくれるはずです。

 

 

 

1)人々はイエスにつまずいた

 

きょうの箇所は、イエスが故郷ナザレに久しぶりに戻って来られた時のことが書かれています。

 

 「イエスはそこを去って故郷にお帰りになった。」(1節)

 

イエスが故郷で安息日に会堂で教え始められるとどよめきが起こります。イエスはどうしてすばらしい説教ができるのか。奇跡を行う力はどこで身につけたのか。イエスの仕事は大工ではなかったか。イエスは、あのマリアの子ではないか。わたしたちはイエスの弟、妹も良く知っている(23節)。人々の言葉は否定的です。イエスを怪しみ、警戒心を持っているのです。

 

人々の言葉に特徴的なのは、「・・・ではないか」という言葉です。彼らが先入観(色眼鏡でみる)を持って見ていることがわかります。

 

イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである。」(4節)と嘆いています。信じてくれない彼らの前で、イエスも力を発揮できなかったと言います(56節)。

 

イエスも理解してもらえなかったのです。理解してもらえない人たちの気持ちをイエスはわかってくださっています。

 

 

 

2)理解される日を信じて

 

マルコによる福音書33135節には、イエスの家族がイエスを家に連れ戻そうとしたことが書かれています。イエスはわかってくれているはずの母や兄弟たちさえも理解していませんでした。

 

しかし、「イエスの母マリア、またイエスの兄弟たち」(使徒言行録114節)「ヤコブ」(コリントの信徒への手紙一157節)、「主の兄弟たち」(コリントの信徒への手紙一95節)「主の兄弟ヤコブ」(ガラテヤの信徒への手紙119節)などの箇所からわかるように、イエスの家族はイエスが昇天された後、イエスをメシア(キリスト)として信じ、イエス・キリストを宣べ伝える側に立ちます。またイエスの兄弟はキリスト教会の中心的な指導者になっています。

 

 この変化をもたらしたものは何でしょうか。「人間にできることではないが、神にはできる。」(マルコによる福音書1027節)、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリントの信徒への手紙一123節)のような箇所からわかるように、非科学的と言われようが、人間の常識を超えた、聖霊のお働きとしか説明ができません。それ以上でも、それ以下でもありません。

 

 

 

 お坊さんから牧師になられた松岡広和先生の救いの話も参考になります。

後で知ることになるのですが、松岡家で彼が最初のクリスチャンではなく、が最初にクリスチャンになり勘当、出入り禁止になっていた彼の叔父さん夫婦(父の末弟)の祈りがあったのです。

背後に聖霊のお働きがあったことを感じる話です。 


2017年6月18日

 

「娘の信仰」 マルコによる福音書5章25~34節

 

 

 

 きょうの聖書箇所は不幸を一人で背負いこんでしまったような女性の話です。

 

「ここに12年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」(2526節)

 

聖書は女をこのように紹介しています。

 

出血が止まらない病気は、婦人病として当時は忌み嫌われる病気でした。12年間もの長期にわたって患っているのですから、その苦悩は大変だったと思います。

 

聖書箇所は先週の礼拝説教でお話したヤイロの娘の話に挟まれた話です(2124節、3543節)。

 

ヤイロの娘の年齢は12歳です(42節)。二人の境遇は大きく違っています。ヤイロの娘は愛情たっぷりに育てられていることがわかります。

 

出血の止まらない女は同じ12年という時間を病の中で過しています。女は病気に対する偏見の中、家族も、友人も、お金もすべて失います。それでもいちずの望みを失わずに苦しみながらも懸命に生きてきたのです。

 

 女はイエスの評判を聞いて、服にでも触れれば病気が治るのでないかと、群衆に紛れて服に触りました。(2729節)すると女は病気が治ったことを感じることになります。

 

 イエスはなぜ女を探し当て、話をされたのでしょうか(3031節)。そこがこの箇所の重要な点です。

 

イエスは死にかかっている娘を治すために急がなければならないはずですが、女を探し出そうとなさっています。今は11秒でも惜しいはずです。

 

 父の娘の呼び方とイエスの女の呼び方にヒントがあります。

 

ヤイロは娘のことを「娘」と呼ばすに「幼い娘」(23節)と呼んでいます。イエスは女を「婦人(女)よ」と呼ばずに「娘よ」(34節)と呼んでいます。

 

イエスは意識してこのように呼びかけたと思います(マルコによる福音書の著者マルコはそのことを

 

理解して書き留めています)

 

 娘が愛おしい父は、12歳の娘を小さな子のように見ています。ここに父の愛情が見られます。

 

イエスはこの父が娘を愛するように、神が女を愛していることを伝えているのです。

 

神の愛を伝えることなしに、病気治る(肉体のいやし)ことだけでは意味をなさないのです。

 

 ところで、この女性に時間を使ったことで、娘の訃報を聞くことになりました。

 

父や群衆はこの女に関わりもたもたしているのをどんな思いで見ていたかと考えてみましょう。

 

私たちはどちらが大事か、どちらを優先させるべきか、どちらかを選ばなければならないのなら、

 

どちらを選ぶかと考えます。

 

 イエスはどちらも大事だと、優劣をつけていません。イエスの100匹の羊のたとえがそれを物語っています(マタイによる福音書181214節)。

 

 最後に、きょうの説教題であります「娘の信仰」についてです。

 

 イエスが言った「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(34節)が、服に触れればいやされるということなら、迷信を信じているだけの幼稚な信仰です。

 

 「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」(33節)のです。「服に触れば」の迷信信仰から、自分は確実に誰を信じているか、へと変えられています。幼稚な信仰のままではいけませんが、はじめは幼稚な信仰でも良いということではないでしょうか。


2017年6月11日

 

「起き上がって、歩き出した」 マルコによる福音書5章21~24節

 

 

 

 きょうの聖書箇所の話しは、病気の子を持つ親の愛の物語です。

 

この話は、マタイによる福音書、ルカによる福音書にもでてくる話です。

 

この話は、この話に入り割り込むようにもう一つの物語がでてきます(52434節)。それは次回お話します。

 

 

 

話しのあらすじです。

 

娘が病気になった父親がイエスのところに行って、病気を治してほしいと願い出ます。

 

イエスはその父親の願いを聞かれ、病気の娘のもとに行きますが、途中で娘が亡くなったことの知らせが入ってきます。それでも、イエスは娘のもとへ行かれ、死んでしまった娘を生き返らせたという話です。簡単に言ってしまえば、死人が生き返る話です。おとぎ話として片づけこともできます。あるいは、イエスは死人を生き返すことのできる特殊な能力者と考えることもできます。

 

 

 

 私たちは、聖書が伝えようとしているほんとの意味をご一緒に見ていきましょう。

 

イエスが娘の家に行く途中、娘が亡くなったとの知らせがきます。

 

娘の父親は娘が亡くなったことを聞いて、イエスに来てもらう必要がなくなったのです。

 

それでもイエスは死んでしまった娘のところへ行くと言われたのです。

 

聖書は、父親は会堂長の一人でヤイロと名の人であると記しています。それは、みんなに良く知られていた人物と言うことです。会堂長は地位と名誉を与えられている職業です。

 

町の中で彼の名を知らない人はそんなにいなかったと思います。イエスの足もとにひれ伏して、娘の病気を治してほしいと懇願する男に人々は父親の愛情を見たことでしょう。

 

 地位があっても、お金があっても、愛情があっても、どうすることもできない人間の限界を、父親もそれを見ていた人たちも今更ながら思い知らされたことでしょう。

 

イエスから出た言葉は「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ。」

 

人々にはイエスのこの言葉はばかげた、現実を無視した、ふざけた言葉にしか聞こえず、イエスをあざ笑ったのです。現代人は彼ら以上にそのように思うでしょう。娘は眠っているのではありません。死んだのです。眠っているだけならまだ可能性があります。

 

死んでしまったら、終わりだと、誰しも思います。娘の関係者の間には腹立たしさと滑稽さとが渦巻いています。

 

 しかし、現実を無視したような「なぜ泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ。」と言われたイエスの言葉が神の言葉なのです。

 

 イエスが死んだ子どもの手を取って、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい(タリタ、クミ)」と言われると、娘はすぐに起き上がって、歩き出したのです。

 

 死と言う終わったような現実を、イエスは眠っているのだ、すなわち、終わっていないよ、と手をとって起き上がらせてくださるのです。

 

 

 

これが神の現実です。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(コリントの信徒への手紙一 118節)

 

今もイエスは「恐れることはない。ただ、信じなさい」(36節)と私たちにも語っておられます。

 


2017年6月4日

 

「賜物として聖霊を受けます」 使徒言行録2章37~42節

 

本日の礼拝は、ペンテコステ礼拝です。

 

1)ペンテコステとは何か

 

キリスト教会の大祭(行事)はクリスマス、イースター、そしてペンテコステの3つです。

 

ペンテコステの名は、使徒言行録2章1節の「五旬祭」のギリシア語から来ています。

 

この日にイエス・キリストを信じる者たちに聖霊が降り、この日を境にイエス・キリストを信じる者たちが爆発的に増えていきます。このことを記念して、キリスト教会はこの日を覚えて毎年お祝いするようになりました。聖霊が降った日として聖霊降臨祭とも呼びます。

 

2)五旬祭に何があったか

 

五旬節(七週の祭りとも呼ばれている)はユダヤの三大祭りの一つです。神殿に巡礼するのが習わしになっていました。世界中に離散していたユダヤ人たちも巡礼に訪れてきます。

 

 この日、クリスチャンたちは信者の家に集まって祈り会を開いていました。「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語られるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(1~4節)

 

 驚いたのは、外国から巡礼のために来ていたユダヤ人たちです。自分たちが移り住んでいる外国の言語で彼らが話しだしたからです(2章5~13節)。

 

3)わたしたちはどうしたらいいのでしょうか

 

驚いている彼らに、聖霊が降ってこのように話すことがほんらいできない言葉を語っているのだと説明し、聖霊を下さった神についてペトロは話しだします。いわゆる説教(福音を語る)をはじめたのです。そこで語られたのは人間の罪とそれを赦すためのイエスの十字架と復活です(14~36節)。

 

人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・

 

キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

 

4)聖霊は神からの贈り物です

 

 「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)はきょうの説教の重要な点です。

 

 賜物は神さまから贈り物、プレゼント。ギフトです。神からの贈り物が聖霊なのです。

 

「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊の宿ってくださる神殿である」(コリントの信徒への手紙一6章19節)

 

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙5章5節)

 

 「あなたがたをみなしごにはしておかない。」(ヨハネによる福音書14章18節)

 

 聖霊は、クリスチャンを愛し、信仰生活が孤独にならないように助け、守って下さる方なのです。


2017年5月28日

 

「名はレギオン」 マルコによる福音5章1~20節

 

 イエスが悪霊に取りつかれた者の悪霊を追いだされた話です。追い出された悪霊は行き場に困り豚に乗り移り、乗り移られた豚たちが驚いたのか、いきなり崖から湖めがけてなだれ込み、おぼれ死にます。「人のいのちは地球よりも重い」という言葉がありますが、「人のいのちは豚2千匹よりも重い」という類の話ではありません。

 

 男に取りついた悪霊の名前は「レギオン」です。レギオンとは軍隊の言葉でローマ軍団のことです。イエスに名を聞かれた悪霊が「大勢だから」と答えています。

彼は服を着ておらず、墓場に住みつき、気が狂ったように暴れるために、くさりや足かせで身体を拘束され、昼夜を問わず大声で叫び、石で自分を打ちたたくという自傷行為も行っていたのです。

  社会や仕事、家庭や子育て、いろんな人間関係のあつれきで、暴力的になったり、自傷行為に走ったり、気が狂ったように大声で叫び、ほんとにはくさりや足かせはなくても、目に見えないくさりや足かせに拘束され、人との接触を嫌がり、増々異常になってしまう。

 自分のことなのに、悪霊に取りつかれているような、自分ではどうすることもできない状態。

 

 そういう意味では、私たちにも、多種多様なレギオンがとりついているのではないでしょうか。

 

 イエスは悪霊に向かって「汚れた霊、この人から出て行け」と言われます。

 行き場を失った悪霊どもは豚に乗り移り、乗り移られた豚たちはいっせいに崖から湖めがけてなだれ込み、おぼれ死に、悪霊に取りつかれていた男は衣服を着用し、正気に戻ります。

 

 パウロはローマに宛てた手紙の中で、

 

「わたしは、自分のしているころが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ローマの信徒への手紙7章15節)「そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる悪なのです。」(717節)と書いています。

 

 イエスがゲラサ地方に渡られたときのことを見ていくと、

 

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸にわたろう」と弟子たちに言われた。(435節)

 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。(51節)

 人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。」(17節)

 「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られた」(21節)

 結果的にはイエスはこの男のためだけに向こう岸へ渡ったことになります。

 ユダヤから見るとゲラサは外国です。だから、ユダヤ人が汚れた動物として食べない豚が飼われていたのです。この男を救うためだけにイエスは向こう岸に渡られたのです。

 

 イエスは私たちを救うために神の国からこちら側(人間の世界)へ渡って来られたのです。

イエスは十字架でわたしたちの罪をすべて引き受けられています。「人のいのちはイエスのいのちより重い」です。

私たちも、私たちのレギオンを追い出していただきたいと思うのではないでしょうか。

それがおできになるのが、イエスです。


2017年5月21日

 

「なぜ怖がるのか」 マルコによる福音4章35~41節

 

 

 

 私たちは人生を航海にたとえることがよくあります。

 

ありきたりかもしれませんが、この箇所を航海にたとえてお話します。

 

 

 

 イエスと弟子たちが舟に乗っておられたときの事です。静かだったガリラヤ湖に突然突風がふき始めました。この湖は突然このように突風がふく地形だったのです。湖(海)が荒れ始め、舟は荒波にのまれ、沈みそうになります。弟子たちの多くはこの湖を漁場としていた漁師でした。荒波にも慣れているはずの弟子たちです。しかし、今回ばかりは、今までに経験したことのないような突風だったので、たいへん怖れてしまいました。

 

 

 

弟子たちは湖を熟知していた湖のプロです。そのプロでさえ、怖れてしまったのです。

 

私たちは、それぞれ自分自身の人生のプロです。私たちは経験というものを通して成長しています。

 

親のプロとして、仕事のプロとして、人生のプロとして、乗り越える力が備わっています。

 

しかし、今回の弟子たちのように、乗り越える事の出来ない場面にでくわすことがあります。

 

 

 

幸いにも、彼らにはイエスが共におられました。これはとても大切な点です。

 

弟子たちはこの危機から守ってくれる方をもっていたのです。

 

弟子たちは、早速イエスに助けを求めています。

 

おもしろいのは、弟子たちが助けを求めたときのイエスです。イエスは艫(船尾)の方で枕をして眠っておられた(38節)のです。弟子たちはなぜすぐに助けてくれないのかと憤慨していますが、イエスは慌てておられないということです。神さまご自身があわてるような神だったら、信じるに値しない神です。

 

 

 

イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった(風はやみ、波はおだやかになった)(39節)。

 

 

 

 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(40節)

 

クリスチャンでも臆病風にふかれて小心になることもあるでしょう。イエスが自分のことに関心を持っておられない。心配しておられないと感じることがあるでしょう。

 

イエスは私たちにも言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」

 

 

 

 有名な賛美歌の一つに「人生の海のあらしに」というのがあります。

 

新生讃美歌だと、520番になります。

 

1890年(明治23年)今から130年程前の作品になります。

 

人生の海のあらしに 揉まれきしこの身も ふしぎなる神の手により 命びろいしぬ

 

いと静けき港に着き われはいまや安ろう 救い主イエスの手にある 身はいとも安し


2017年5月14日

 

「聞く力に応じて」 マルコによる福音4章33~34節

 

 

 

 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。(3334節)

 

 この箇所から2点お話します。

 

 

 

①たとえで話された理由

 

「このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかった」とまで、イエスは言われています。

 

私たち人間が、直接「神の国」を理解することは難しいことだからです。

 

私たち人間はまことの神を見ることも、理解することもできない存在になっています。

 

だから、人間は自分たちが理解できるようなものを信仰の対象にして、たとえば、私たちに恵みと恐れを与える太陽や月や光や水や木や火や風などを神だと思い込んだのです。「神の国」を理解できないから木、石、鉄などで神々を作り出して安心を得ようとしているのではないでしょうか。

 

イエスは「神の国」を私たちの身の回りにあるものや経験することができるものを用いて、「聞く力に応じて」理解させようとなさったのです。「聞く力」は年齢とは関係ないと思います。

 

子どもでも神さまのことを良く理解できる子もいるし、年齢は重ねても神さまのことを理解できない人もいます。

 

 

 

②たとえの意味を説明された理由

 

「御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」のはなぜでしょうか。

 

まことの神を信じた時、私たちは御言葉の意味が理解できるようになります。

 

 三浦綾子読書会で、「光あるうちに」を読んでいます。この前、「キリストの復活と聖書」のところを読みました。綾子さんは復活と言う一見非現実的な荒唐無稽なことを、聖書のいろんな箇所を引用しながら、あるいは自然科学を参考にしながら、復活が事実であり、真実であったことを伝えようとしています。それは綾子さん自身が懐疑的で、信じることがなかなかできなかった過去があるからです。

 

読書会で、入信すぐには信じることができないような処女降誕や三位一体、復活でさえ、信じることができるようになったとの感想を述べられた方がいました。ほんとにそうだなと私も思います。

 

 ある交渉事で相手の方が「お前の言う○○はよく分からないけれど、お前の言うことなら信じよう」と、交渉が成立したという話を聞いたことがあります。

 

イエスの人柄に近づけば近づくほど、イエスの語られる言葉をそのまま受け入れることができるようになったのではないでしょうか。そこには、回りくどいたとえという説明を介さなくてもよくなったのです。すべてを説明されても受け取ることができる信仰が備わったのです。

 

「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」(ヨハネによる福音書1625節)


2017年5月7日

 

「からし種」 マルコによる福音4章30~32節

 

 

 

 先週の説教と同じく、イエスによって語られる「神の国のたとえ」が続きます。

 

更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。

 

それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(3032節)

 

 

 

 たとえで言われた「神の国」は、どこか特定の場所を指しているのではありません。

 

神の支配はという意味です。

 

からし種は、最も小さな種の代表として用いられています。

 

イエスは、神の御支配は、最初とてもとても小さなものに見えるが、成長して大きくなることをたとえで話されたのです。

 

 

 

 日本では、クリスチャンは少数者です。しかし、世界でみると、信仰者の人口上位は、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教です。日本で信仰者の多い、仏教は4番目で、神道は下位になっています。

 

イエスは貧しい父母の家に生まれ、お産場所は家畜小屋、寝かせられたベビーベットは動物の餌箱、育った場所はガリラヤの田舎です。ナタナエルなる人物が、「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」(ヨハネによる福音書146越)と小ばかにしている場所です。イエスは神の国の教えをほとんどこのガリラヤで語りました。2000年前のユダヤの田舎で起こった出来事が、今や世界宗教にまでなっています。

 

その意味でも、イエスのたとえはほんとでした。

 

 

 

 また、このイエスのたとえは、私たちの個人レベルの信仰にも当てはまります。

 

イエスはからし種を用いて別のたとえをしています。

 

「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイによる福音書1720節)

 

 私たちは、先週の説教箇所(マルコによる福音書42629節)、また種を蒔く人のたとえ(419節)と合わせて考えると、信仰は先の見えない小さなものであっても、豊かな実を結ぶことを信じて、従い続けることが大切であることがわかります。

 

イエスは「蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(32節)と話されています。からしに鳥が巣を作ることは実際にはありません。それぐらい

 

大きくなるとおっしゃったのです。しかし、イエスは鳥の安住できる巣が作れるほどになるということの中に、私たちの信仰が自分だけが恵まれたら良いという信仰ではなく、他者をも恵ませるものへとなるのだと言いたかったではないかと思います。

 

「あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り つばめは巣をかけて、ヒナを置いています。」(詩編844節)


2017年4月30日

 

「収穫の時」 マルコによる福音4章26~29節

 

 

 

「神の国」をイエスは植物の成長にたとえて語られています。

 

「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次の穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すると、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(2629節)

 

 

 

2000年前の中近東の農業はいたってシンプルでした。

 

それは、イエスの別のたとえからもわかります。たとえば、マルコによる福音書4章1~9節の語られている話です。

 

 

 

きょうのたとえは、神のできごと(福音)がどのように成長するかを、植物の成長を用いて教えています。私たちは、このたとえから3点を学びます。

 

 

 

①種にいのちがあるように、福音自身にいのちがある。

 

種を蒔く農夫自身が種にいのちを与えたのではないということです。

 

種自身にいのちが宿っているように、福音自身にいのちが宿っています。

 

「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。

 

(使徒言行録520節) 

 

「神の言葉は生きており、」(ヘブライ人への手紙4章12節)

 

「わたし(パウロ)は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(コリントの信徒への手紙36節)

 

 

 

②種が自動的に成長するように、福音も自動的に成長する。

 

私たちが種を成長させるのではありません。「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのである」(2728節)

 

「茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」(28節)と成長には秩序があります。

 

いきなり収穫とはいきません。神のできごとも同じです。忍耐が必要です。

 

 

 

③農夫にできことは種の生育を妨げるものを取り除くことであるように、福音の成長を妨げになっているものを取り除くことです。

 

イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」(マルコによる福音書1014節)

 

 

 

イエスの語られたたとえ(マルコによる福音書4章1~9節)の説き明かし(41320節)に出てくるようなものが妨げになります。それらを取り除く必要があります。

 

 

 

 最後に、

 

「成長されてくださる神」を信じて、あせっていらぬことをしないことです。


2017年4月23日

 

「自分の秤」 マルコによる福音書4章24~25節

 

 

 

また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

 

 秤の話は、当時のことわざをイエスが引用され、お話されたとも言われています。

 

私たちはイエスが語られたことを、私たちが日常の生活の中で経験する様々なことを通して、そうだな、と思っているのではないでしょうか(思い当たることがある)。

 

 信仰の世界でも同じだと、イエスは言われています。

 

 

 

 イエスは私たちを秤(長さや量を計る物差し、量り、枡などの道具)にたとえて、あなたの量りに注意するようにと促しています。

 

 

 

イエスが、どのような文脈(話の流れ、コンテキスト)の中で、この話を用いておられるかを見てみると、イエスの思いがもっと伝わって来るのではないかと思います。

 

 

 

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。」(マタイによる福音書7章1~2節)

 

そもそも、そのあなたの量りが狂っていないか、そのことに気付くようにとイエスの話しは続いています(735節)。

 

 三浦綾子さんは講演や本の中で、人間は自分を計る秤と他人を計る秤のふたつの秤(物差し、尺度を持っているという話を度々なさっている。

 

体重計の針の位置を自分の時は、あらかじめマイナスの位置にずらしておき、他人の時は、プラスの位置にずらしておくようなものでしょうか。そして、針の位置をマイナスやプラスにずらしていることに気付かないでいるのです。

 

 

 

「人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決めつけられることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入り、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカによる福音書63738節)

 

 

 

私たちは「主の祈り」でこのように祈っている。

 

 「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」と。

 

 

 


2017年4月16日 イースター主日

 

「イエスの復活はたわ言か」 ルカによる福音書24章1~12節

 

 

 

 きょうの礼拝は、イースター礼拝です。

 

最近日本でもイースターという文字や卵やウサギなどのイラストが目につきはじめました。

 

しかし、クリスマスと同様、内容(意味)も分からずに、商売道具として用いられているのが現状です。

 

がっかりさせて申し訳ありませんが、イースターという単語も、卵もウサギも、直接聖書とは関係ありません。これらが復活のイメージに合うので用いられたのでしょう。

 

 

 

きょう(イースター)が何を記念してお祝いする日かをお話します。

 

そのことが書かれているのが、きょうの聖書の箇所です。

 

女たちはイエスが亡くなった後、家に帰って、イエスの遺体をきれいにするために香料と香油を準備します。女たちはすぐにでも、葬りの準備をしたかったのですが、安息日規定に従って金曜日の夕方から 安息日が終わるまで待ち、朝早くイエスの葬られている墓(洞穴)に行きました。

 

墓は、洞穴をふさいでいた岩が転がされていて、中に入ると、イエスの遺体が無くなっていました。

 

困惑している女たちのそばに、輝く衣を着た二人の人が現れ、「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい」。そして、イエスが生前話しておられたとおりに十字架につけられ、3日目に復活したことを話します(2356247節)。

 

女たちはイエスの言葉を思い出し、このことを使徒たちに伝えに行きますが、それを聞いた使徒たちはたわ言としてはじめは信じなかったと書かれています。

 

「たわ言」から、3つのことをお話します。

 

 

 

①たわ言  「事実」は「事実」

 

 生前イエスから話を聞いていた使徒たちさえ、イエスの復活は信じられないことで、たわ言に思われました。女性たちは、たわ言と思われようが、事実は事実として伝えるしかなかったのです。

 

「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリントの信徒への手紙一 1

 

25節)「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコによる福音書1027節)

 

 

 

②たわ言  神の約束

 

生前イエスは、「人の子(自分)は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」(7節)と言われていたことが起ったのです。

 

「たわ言」と思われるような、現実には、あり得ないことによって神の約束の確かさを示されたのです。

 

週の初めの日は、日曜日のことです。それで私たちは毎週日曜日に集まって神さまを礼拝するのです。

 

 

 

③たわ言  人生のやり直し

 

「人生はやり直せるか」との問いに、ある人たちからは否定的な「否」の返事が返ってきます。

 

しかし、イエスの復活は、(終わりである)死は勝利にのみ込まれた(コリントの信徒への手紙一1554節)ことを、私たちに示し、「やり直せる」がたわ言のように思えたことを信仰によって現実としてくださるのです。


2017年4月9日

 

「太陽は光を失った」 ルカによる福音書23章44~49節

 

 

 

キリスト教暦では、きょうから、受難週に入ります。

 

イエスの十字架と復活を記念するイースターは、イエスの誕生のクリスマスよりも歴史は旧いものです。

 

きょうは、キリスト教暦で棕櫚(しゅろ)の主日となります。

 

棕櫚は、新共同訳聖書では、なつめやし、と訳されています。新改訳聖書はしゅろ、GOOD NEWS Bible訳ではbranches palm treesと訳されています。

 

 

 

「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。』(ヨハネによる福音書121213節)と記述されています。

 

人々は、なつめやしの葉を振って、ホサナ、万歳と叫んでいます。イエスが、熱狂的な歓迎を受けてエルサレムに入場なさったことがわかります。

 

しかし、この週の金曜日には十字架に架けられてイエスは処刑されるのです。

 

 イエスは、捕えられ、まともな裁判もなく、結論ありきの、十字架刑の有罪判決を受けます。

 

イエスはユダヤの王と自称したと言いがかりをつけられ、ローマ兵士により王族の色である紫の衣を着せられ、皇帝の月桂樹の冠になぞらえ、いばらの冠をかぶらされ、「ユダヤの王、万歳」と愚弄され、 殴る、蹴る、つばをはきかけられるという屈辱的な仕打ち受けます。

 

群衆はイエスを十字架にかけろとの大合唱です。

 

罵声、嘲笑は同じ十字架に架けられている両端の二人からもありました。

 

(そのうちの一人は、罵声の言葉を撤回して、悔い改めて、イエスがパラダイスに連れて行くと約束されます)

 

一部の人々の誤った誘導に乗せられた群衆により、イエスの十字架刑は正当化させたのです。

 

イエスは人間の尊厳を傷つけるありとあらゆる屈辱と辱めを受け、殺されたのです。

 

人々を狂気へと導くのは、社会や制度の仕組みではありません。

 

イエスはある時、宗教指導者から宗教的行いである食事の前に手を洗うということを行っていないと批判されています。それに対して、イエスは、手を洗うとか洗わないとの表面(制度が悪い、社会が悪い、とか)で人々が悪くなるのではなく、もともと人間の心には悪い心があるのだと指摘しました。

 

「人間の心から、悪い思いがでてくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、

 

詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚す」

 

(マルコによる福音書72123節)人間の醜い面がイエスを死へと追いやったのです。

 

 

 

「太陽は光を失っていた」(45節)と書かれています。人々の罪の結果の暗闇です。

 

そのなかで、私たちの慰めは、「百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」ところです。

 

百人隊長は、強さ、勝利を求められている兵士です。その彼が、ローマ皇帝への反逆罪にもなりかねない、体制批判ともとられる発言をしたのです。

 

彼はイエスの十字架上のことばと行動に、自らの罪とそれを赦される神を見たのです。

 

 

 

イエスは暗闇を照らすまことの光です。

 


2017年4月2日

 

「ともし火」 マルコによる福音書4章21~23節

 

 

 

 また、イエスは言われた。

 

「ともし火を持って来るには、枡の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。

 

隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公けにならないものはない。

 

聞く耳のある者は聞きなさい。」(2123節)

 

 

 

ともし火は、灯り、ランプです。 枡の下の枡は穀物などを量る容器でボウルです。

 

燭台は、火をともすための容器です。

 

部屋などを明るくするための灯ともし火を、容器で覆ったり、ベットの下に置いたりするような愚かなことはしないはずです。ともし火は部屋などを照らすために燭台に置くでしょう。

 

それと、同じように、たとえで語られた話も、あらわにしないと、公けにしないと意味がないと言うのです。

 

どんなに正確に時を刻む高級腕時計も人々の目に留まらなければ、使ってもらわなければ、意味をなさないと同じです。

 

 

 

「神の国の秘密」(11節)とあるように、神の教え(福音)の真理は理解がむずかしいものです。

 

しかし、神の教えは人々に宣べ伝えられ、理解され、受け入れられて、はじめて意味があるのです。

 

 

 

使徒言行録に、このような話が載っています(使徒言行録82640節)。

 

エチオピアの女王に仕えている高官がルサレムに礼拝に来て、馬車に乗って帰る途中 のことです。 

 

彼は、馬車の中でイザヤ書を朗読していました。馬車の音にかき消されることなく、その声は外にまで聞こえていたのですから、大きな声で朗読していたのでしょう。  

 

 そこに、フィリポと言う人物が、馬車の横を一緒に走って、「読んでいる意味がわかりますか」と高官に声をかけます。高官はそれに対して、「教えてくれる人がいなくてどうして分かるでしょう」と言って、

 

彼を馬車に同乗させます。

 

フィリポは、読んでいるところの意味を説き明かし、その説き明かしを聞いた高官はすぐにイエスを信じて、その場でバプテスマを受けたというのです。

 

フィリポは偶然そこに居合わせたのではありません。聖霊にうながされて行動をしています。

 

先週の説教でお話したことですが、神の福音を理解できるようにして下さったのは聖霊のお働きがあったからです(コロサイの信徒への手紙126節、コリントの信徒への手紙一12129節、123節など)。「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」(ローマの信徒への手紙916節)と言われている通りです。

 

私たちはきょうのフィリポのことで教えられたことは、聖霊のお働きは直接に関わるだけではく、

 

聖霊が人を使っておられる一つの例です。

 

神の教えを、隠れているもので、あらわにするのも、秘められたもので、公けにするのも、

 

聖霊が私たちを用いてなされるのです。

 

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」(マタイによる福音書516節)

 


2017年3月26日

 

「認めず、理解せず」 マルコによる福音書4章10~12節

 

 

 

 きょうの聖書の箇所は、弟子たちはイエスのたとえの意味がわからないので、イエスに先ほどのたとえはどんな意味ですか、と尋ねた時のイエスの返事です。

 

 

 

そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、

 

すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、

 

こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」

 

 

 

神の国の秘密、別の訳は「奥義」、英語では、「ミステリー」あるいは「シークレット」などに訳されています。『』のことばは、イザヤ書6章9~10節からの引用になります。

 

この引用でさえ、ミステリーで、謎めいて理解しくにいものです。

 

もともと、神の(救いの)できごとを人間が理解することはできないのです。

 

「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。」(コロサイの信徒への手紙126節)

 

 

 

だから、パウロは「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」(ローマの信徒への手紙9章16節)、「『聖霊によらなければ、だれも、イエスは主である』とは言えないのです。」(コリントの信徒への手紙一12章3節)と教えています。

 

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。・・・・それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。(コリントの信徒への手紙一1章21節~29節)

 

 

 

外の人とは、ごく大雑多な言い方になりますが、現代の私たちに分かりやすく言えばクリスチャン以外の人をさしているということができます。

 

私たちが神のできごと、イエスの十字架と復活を理解し、信じることができたのは、神がそうさせてくださったからです。

 

 私たちがキリストの救いを信じ、感謝してバプテスマを受けクリスチャンになったのも、また、

 

そもそも私たちがキリスト教会へと導かれているのも聖霊のお導き、お働きがあったからです。

 

 

 

そうですから、キリストの救いを信じているが、家庭のことでなかなかバプテスマを受けることに二の足を踏んでおられる方がおられたら、キリストを信じようとする思いを無理に打ち消そうとしないことです。

 

また、すでにクリスチャンになっている者は、自分がバプテスマを受けたことを疑わないことです。

 

すでに、あなたのうちに聖霊が働いておられるのですから。

 

聖霊のお働きを拒否、拒絶しないようにしなければなりません。3章29節


2017年3月19日

 

「神のことばの種を蒔く」 マルコによる福音書4章1~9節

 

 

 

 きょうは臨時総会の日です。役員の承認と4名の執事の選挙を行います。

 

 

 

イエスは神の教えをお話しするために、再びガリラヤ湖へ行きます。

 

余りにも大勢の人が集まったので、イエスは舟に乗りこまれ、舟の上で岸にいる人々に話の続きをなさいました。

 

そのとき、イエスはたとえでいろいろ話をされています。そのたとえ話の一つがきょうの聖書の箇所です(41~2節)。

 

イエスが話を終えられて、群衆が去り、イエスと弟子たちになったとき、弟子は先ほどのこのたとえの説きあかしを願っています(10)。彼らはたとえの意味することが理解できなかったのです。

 

そこでイエスは、懇切丁寧にたとえの意味するところを教えます(1320節)

 

イエスは「このたとえが分らないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」(13節)

 

このたとえは他のたとえを理解するための基本形になるたとえいう意味で重要なたとえです。

 

 

 

 イエスは弟子たちと残っていた人たちとが願ったので、たとえの説きあかしをしていますが、もともと、たとえ話は説明まではしないのが一般的です。

 

私たちが2000年前のこの場所に居合わせ、群衆と共にイエスのたとえ話を聞いていたならば、どうでしょうか。イエスは私たちに何を教えておられるのか想像し、こんな意味ではないかとあれこれ考えるのではないでしょうか。種を蒔く人? 道端に落ちた種? 鳥? 石地に落ちた種? 茨に落ちた種? 茨? 良い土地に落ちた種? 30倍、60倍、100倍? 実? 耳のある者? 何の事だろう?かと。 農夫の種蒔きの情景は分かるが、それで何を理解せよと言われているのか?

 

私の生活とどう関係あるのか?

 

私たちは、私たちが農夫ならば実りが多い方が良いだろう。30倍よりも、60倍よりも、100倍の実を結ぶ方が良いに決まっていると、考えます。

 

しかし、私たちの大半は、農夫ではない。私たちの収穫の実とはなんだろうか、と考えます。

 

 

 

その私たちに、イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」(9節)と言われます。

 

 

 

①わかった気にならないことです。分かった気になると、私たちはそれ以上、分かろうとしないものです。聞こうとしないものです。

 

 

 

②聞きなさい、と命じられているように、イエス(聖書)に聞き続けることです。

 

いつかたとえの意味するところをハッと気づかされるのではないでしょうか。

 

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイによる福音書77節)はイエスの言葉です。

 


2017年3月12日

 

2017年3月12日 主日礼拝の説教要約

 

「イエスの家族」 マルコによる福音書3章31~35節

 

 

 

 イエスは故郷において神の福音を語り、病気をいやし、悪霊を追い出されていました。

 

イエスを快く思わない者たちが、イエスは悪霊に取りつかれて、おかしくなっていると言いふらしました。その噂は広がり、イエスの母マリアとイエスの兄弟姉妹たちは心配してイエスを取り押さえようとします(32021節)。

 

「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らせた」とあります(3132節)。

 

既にこの時、イエスの父ヨセフは他界していたと思われます。イエスには弟(複数人)、妹(複数人)がいました(マタイによる福音書135356節)。

 

さて、イエスを捜しているという声を聞いて、イエスはこう言われています。

 

「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」(3335節)。

 

 

 

 ほんとにイエスは気が狂ったのでしょうか。イエスの冷たい言葉に「幻滅」でしょうか。「親不孝者め!」ですか。

 

 わたしや、あなたがこの言葉を見倣って言ったら、「親不孝者め!」です。

 

イエスは血縁関係から言えば、ヨセフとマリアの実の子ではありません。イエスは聖霊によって生まれた神の子です(マタイによる福音書11825節)。イエスが12歳の時にそれを物語るようなエピソードがありました(ルカによる福音書24151節)。なので、イエスだからこそ許される言葉です。

 

 

 

「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(35節)

 

イエスを救い主(キリスト)として受け入れ、生活する者は、血縁関係を越えて、神の家族の一員となることができるのです。

 

 

 

「神は前もって知っておられた者たちを、御子(イエス)の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子(長男)となられるためです。」(ローマの信徒への手紙829節)

 

 

 

「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族です」(エフェソ219節)

 

 

 

イエスは十字架上で遺言のような言葉を残されている。「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』その時ときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネによる福音書192627節)


2017年3月5日

 

「聖霊をぼうとくする者」 マルコによる福音書3章20~30節

 

 

 

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜(ぼうとく)の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責任を負う」(29節)とはイエスの言葉です。

 

  人の犯す罪も冒涜の言葉のすべてが赦される。この言葉は、愛の神、赦しの神のイメージとピッタリ合うのですが、唯一赦されないことがある。それは、聖霊を冒涜することだ。それは永遠に赦されないことで、永遠に罪を負っていく。なんと厳しい言葉でしょうか。この言葉は、愛の神、赦しの神のイメージとは合わなくなってしまします。

 

 聖霊を冒涜するとは、どんな冒涜なのでしょうか。みなさんはどのようにお考えでしょうか。

 

 これは、イエスは気が狂っているといううわさが広がり、心配した家族がイエスを連れて帰ろうと家の戸口まで来た時のできごとです(32021節)。

 

そのうわさの一つの原因は、律法学者(聖書学者)がエルサレムからガリラヤまで来て、「イエスはベルゼブルに取りつかれている。だから、悪霊を追い出すことがきるのだ」と言いふらしていたことにありました(22節)。

 

彼らは、イエスが病気の人をいやすことができるのも、悪霊を追い出すことができるのも、彼に悪霊の頭(悪霊のドン)ベルゼブル(悪霊の名で、「家の主」「汚物神」の意味があるとも言われています)が取りついているからだ、と言いふらしていたと言うことです。

 

 だから、イエスは内輪もめのたとえ話(2327節)で悪霊の力ではないことを説明したのです。

 

 

 

聖霊を冒涜すること

 

①律法学者たちはイエスのわざ(病気のいやし、悪霊の追い出しなど)が神によると認めたくないので、悪霊を持ちだしたのです。イエスのわざが神からであると認めることは、イエスの語る言葉も神からのものであると認めないといけなくなるので、それを避けたかったのです。

 

しかし、イエスはたとえ話(2327節)で論破されています。

 

聖書は、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイによる福音書1228節)とも言われたことを書いています。

 

 

 

②「はっきり言っておく」とは、ヘブライ語・アラム語のアーメンの翻訳です。

 

イエスは、アーメンを大切なことを語るさいに、冒頭で言うことがしばしばありました。

 

イエスが「アーメン」と言われたとき、人々は、イエスの言葉に耳を傾けたことでしょう。

 

聖霊を冒涜する者とは、人の子らが犯す罪やどんな冒涜(ぼうとく)の言葉も、すべて赦されるということを否定して、受け入れないことです。矛盾に聞こえるかも知れませんが、人が犯す罪やどんな冒涜(ぼうとく)の言葉も、すべて赦されるとは、それを否定する者さえ赦されているということではないでしょうか。

 

神の深い愛と赦しにわたしたちは感謝していきましょう。


2017年2月26日

 

「十二使徒」 マルコによる福音書3章13~19節

 

 

 

「使徒」と聞いて、どんなイメージを持ちますか?

 

アニメやゲームのキャラクターの名に使われるぐらい神秘性があります。

 

 「使徒」のギリシヤ語は「アポストロス」です。意味は、「遣わされた者」です。

 

固有名詞として使われています。

 

 「12」の数字は、旧約に神の民イスラエルが12部族から構成されたことが記されているように

重要な意味をもった数字です。

12人の使徒の名前は、シモン、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ

トマス、ヤコブ、タダイ、シモン、ユダです。12使徒には同名の人がいます。

シモンは二人いますが、私たちが良く知っているシモンをイエスはペトロと名付けて呼ばれていたので区別の説明として入れています。

もう一人のシモンは、熱心党員だったので熱心党のシモンと説明しています。

ペトロはあだ名のようなものでしょうか。イエスはゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟を「ボアネルゲス(雷 かみなり)の子ら」と付けていますが、区別の説明でこのことを入れています。

ヤコブも二人いますから、親の名で区別したりしています。

ユダは出身地とイエスを裏切ったユダと説明されています(タダイがユダとも呼ばれていたようです。ルカによる福音書616節)。

 使徒言行録は、ユダが自死したので、補充としてマティアが加わった(使徒言行録11526節)とあります。

彼らは特別な人たちだったのでしょうか。

そんなことはありません。普通の人たちでした。イエスは直弟子の12人を「使徒」と呼んだのです。

直弟子ではないのですが、パウロは復活されたイエスから直接「使徒」とされたと言い、自らを「使徒」と呼んでいます(コリントの信徒への手紙一 11節ほか)。

 

彼らを見ていくと、おっちょこちょい、怒りっぽい、名誉欲が旺盛、政治的に過激、裏切ったり、思い込が激しかったり、それぞれに欠点をもった者たちでした。また、見た目が地味だったのか、聖書という記録に特別な業績が残っていない使徒もいます(記録に残っていないだけで業績がなかったのとは違います)。しかし、イエスはそのような者たちを召し出しました。

 

使徒として召し出した目的ははっきりしています。「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」(1415節)です。

そして、彼らはその使徒としての働きのなかで信仰者として、人間として成長していきました。

 

遣わされた者ということであれば、クリスチャンも同じです。


2017年2月12日

 

「祭り上げられるのを嫌ったイエス」 マルコによる福音書3章7~12節

 

 

 

「イエスは弟子たちと共に(ガリラヤ)湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。

 

そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。

 

イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩むたちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。」(710節)

 

イエスの教えやイエスのなされたわざが民衆の心をつかみ、イエスの人気は民衆の間でうなぎのぼりにあがっています。

 

汚れた霊どもまでが、イエスを見るとひれ伏し、「あなたは神の子だ」と叫んだ(11節)のです。イエスは、ご自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。(1112節)そして、イエスは群衆から距離をとられています。

 

 

 人々がイエスの周りに集まったのは、イエスの力がほしかったからです。

 

「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。」(ルカによる福音書619節)そうではない人たちもいましたが、集まって来る人たちの大半はイエスご自身には関心なく、イエスの力だけを求めていたのです。

 

そのような迷信を持った一人に出血が止まらない病気で苦しんでいた女性がいました。

 

彼女は、イエスに病気をいやしてもらおうとして、こっそりと後ろからイエスの服の房に触ったのです。「この方の服に触りさえすれば治してもらえる」と思ったから(マタイによる福音書921節)と動機を書いています。治ることが第一で、誰がなおしてくれるかにはさほど興味がないのです。

 

しかし、イエスはこの女性をそのまま帰していません。声をかけておられます。

 

 

 イエスは公生涯に入る前に、荒野で悪魔(サタン)から試みられます(マタイによる福音書4章1~11節)。サタンはこの地上ではイエスより優位に立とうとしたようです。

 

イエスが、汚れた霊どもに、自分のことを言いふらさないようにと厳しく戒めた(マルコによる福音書31112節)のは、サタンの手を借りることを拒否したということです。

 

汚れた霊のパフォーマンスは、群衆の信仰心をイエスからそらせ、イエスの奇跡のわざ(現象)にのみ向けさせようとするためだったのを、イエスは御存じだったのです。

 

 

 

「信心する心が大切で、何を信じているはさほど大事なことではない」という風潮がありますが、「何を信じているか。誰を信じているか」が、もっとも大事なことではないでしょうか。

 

 

 


2017年2月5日

 「法か命か」 マルコによる福音書3章1~6節

 

 あなたがほっておいた虫歯が突然痛み出しました。あなたはあまりの痛さに、近くの歯科病院に行きます。歯科病院はお休みです。入口の掲示板に、「本日は法律による定休日」と書かれていました。あなたは、最近作られた法律によって、きょうが日本国すべての病院が定休日だったことを忘れていました。これは、わたしの作ったくだらない話です。

しかし、きょうの話はそんな話です。

安息日にしてはならないことが、ユダヤの律法(法律)で決められていました。その中に病気の治療は禁じられていました。片手の萎えた人をいやすのも医療行為として禁じられていました。

イエスは医者ではありません。奇跡によって病気をおいやしになられるのですが、呪術による医療行為とみなされていたのです。

イエスを訴える機会を狙っていた彼らは、イエスが安息日にしてはならないことをするかどうかを見ていました。

彼らの心を見抜いたイエスは病人を真ん中に立たせて、人々に向かって「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行なうことか。命を救うことか、殺すことか。」(4節)と問いを発します。そして人々の見ている前で、彼の手を元通りにされたのです。

 イエスは安息日の戒めを破って片手の萎えた人をいやされたのでしょうか。

イエスは「安息日に許されているのは?」と問うことで、律法そのものの精神は「善を行うこと、命を救うこと」にあるということを思い出させようとされたのです。

 「悪を行うこと、殺すこと」になる律法は、律法とは、もはやは呼べないものではないでしょうか。

安息日を「あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。」(出エジプト記2312節)と教えているように、もともと、人間や家畜を過重労働から守る配慮から定められたものでした。

律法、法律、戒律などと呼ばれているものが「善を行うこと、命を救うこと」になっていないならば、教えそのものが間違っていないか、疑ってみるべきです。

彼らは黙っていた(4節)とあります。自己矛盾している自分たちを素直に認めることができなかったのです。

そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲し(5節)まれたとあります。

イエスの怒りは、彼らの頑固な心に対してです。ここで使われている「悲しみ」とは、「同情する、一緒に悲しむ」という意味を含んでいる単語です。

イエスの怒りは突き放すような怒りではなく、かたくなな心である者たちに寄り添うように同情されている姿です。

 しかし、彼らはそれを理解できずに、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた(6節)のです。


2017年1月29日

 「人の欠点が気になる人」 マルコによる福音書2章23~28節

 

 人の欠点が気になってしかたない人っていますよね。

 きょうの聖書箇所は「こんなところまで見ていたの」、と思うような人たちが出てきます。

 

 イエスの弟子たちが麦畑を通りながら、麦の穂を摘んで口に入れたのを、ファリサイ派の人々がとがめたという話です。このファリサイ派の人たちが、人の欠点が気になってしかたない人たちです。

  ファリサイ派の人たちは、イエスの弟子たちのどこが気になったのでしょうか。

その日が、安息日だったことです。十戒の中の一つの戒めに「主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」(出エジプト記20章10節)と命じられています。この戒めを厳格に守ろうとする者たちは、仕事の範囲を事細かに決めました。麦の穂を摘むことは仕事に当たったのです。だから、「ご覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。」と言った(24節)のです。

 

 彼らがイエスと弟子たちの行動を監視していたのか、たまたま目にしたのか、わかりません。気になりだした彼らは、なんでもないような行動が気になりだしたのです(罪人との食事も、断食をしないことも)。弟子たちが口に入れたのは、麦の穂です。手でもんで食べたのです。

 炒ったものではありません。生のままです。食べられないことはありませんが、おいしいものではありません。(弟子たちはよっぽどおなかが空いていたのでしょうか、)空腹でつい口に入れたのだと思います。彼らはそれを見逃していないのです。

イエスは先ほどの「ご覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。」の返答を、数ある聖書のお話から、ダビデが祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べたことを持ちだしています。サムエル記上21章1~7節に書かれてある話です。

サウル王はダビデに嫉妬とねたみと王位を奪われるのではないかとの恐れを持ち、ダビデの命を執拗につけ狙います。逃亡中のダビデが空腹で食べたのが供えのパンです。ダビデは祭司アヒメレクにうそをついて供えのパンを手に入れているのです。

いのちの危険にさらされている極限状態の中で生きるためについたうそで律法に禁じられていることを破り、手に入れたパンなのです。

その話をイエスは持ちだして、白黒はっきりしないと気がすまない彼らに、安息日の答えとします。

安息日は、もともと、人間や家畜を過重労働から守る配慮から定められた(出エジプト記2312節)ことなのに、そこを見失って、規律だけに縛ろうとすることへの否をイエスは言われたのです。

人の欠点だけが気になる時、私たちの心に、正解は一つとの思い込があるのではないでしょうか。そして、その正解は自分が持っていると思っているのです。

 

 イエスは、正解はイエスの中にあると言われています。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(2728節)


2017年1月15日

「変化に対応できない」 マルコによる福音書2章21~22節

 

断食問答に端を発したのが、きょうのたとえ話です。 

断食をするか、しないか、という目に見えることだけを判断材料にイエスを批判した人たちとの問答です(2章1820節)。よくありがちなことです。

 

イエスはこの問いに一つのたとえ話(花婿と婚礼に招かれた客のたとえ話)で断食の真の意味を話します。

 

そして、きょうの箇所の、二つのたとえ話が続けて、イエスによって語られています。

「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。」(21節)

新しい布をわざわざ切り裂いてまで、古い布の継ぎ当てにしない。新しい布の力によって、破れはいっそうひどくなります。

「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(22節)

新しいぶどう酒は発酵ガスが徐々に充満してきます。古い革袋は耐えきれずに張り裂けてしまいます。

せっかくの新しい布を中途半端に古い服の修理に用いるのは良くない。新しい布で新調した方が良い。新しいぶどう酒には、新しい革袋を用いた方が良い。

この二つのたとえ話に共通するのは、常識的な(知識の)話だったということです。

 

ここから3点お話します。

 

①常識が通用しなくなるとき

この話題の発端が断食だったことを思い出してください。断食は宗教行事であり、聖なる業です。

話題にしにくいものです。その点を踏まえて考えなければならないと思います。

伝統、慣習みたいなものはなかなか変えにくいものです。

②古いものを捨てる

古い服の中には愛着があり、着心地も良いので、少々痛んでいても捨てることができないものはあります。イエスのたとえ話が示しているのは、服の好みの問題ではなく、イエスの教え(福音)の問題ですから捨てるべきときには捨てる勇気が必要です。

ルカによる福音書は、「古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方が良い』と言うのである。」(5章39節)とのイエスの言葉を記録しています。

古いもの(考え、組織、制度、慣習など)を捨てることができないので、中途半端になってしまう。

それは、新しいことへのおそれが背後に働いているからではないでしょうか。

③新しいものを受け入れる

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントの信徒への手紙二5章17節)

私たちがイエスからいただいたのは新しい教え(福音)です。福音に生きるためには、福音を受け入れた私たち自身が変わる必要があるのです。


2017年1月8日

 「深く考えもなしに」 マルコによる福音書2章18~20節

 

その場の雰囲気に押し切られてしまったことはありませんか。

 故事ことわざに「長い物には巻かれろ」Better bend than break. と言うのがあります。

 故事ことわざのように逆らわずに受け入れた方が得策だと考え、従ったことはありませんか。

 

きょうの聖書の箇所は「断食」について述べられている箇所です。

 (バプテスマの)ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人たちは、定期的に断食をしていたようです。ところが、イエスの弟子たちは断食をしていませんでした(18節)。

 断食は宗教者として大切に守るべきものでした。そのことは、マタイによる福音書61618節、ルカによる福音書18914節によってわかります。

 人々の目には、イエスの弟子たちの信仰がだらしなく見えたのでしょう。

 人々は、イエスの弟子たちが断食を軽んじていたことを許せなかったのではないでしょうか。

 そこで彼らの師であるイエスに、あなたの宗教教育あるいは訓練がなされていないからだと苦言を申し立てています(18節)。

 それに対してイエスは、その場の雰囲気に流されることも、「長い物には巻かれろ」的なこともありませんでした。

 この時、イエスは断食の問にそのまま答えずに、婚礼に招かれた客と花婿の話をしています(1920節)。

 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」

 花婿はご自身(イエス)を、婚礼の客は弟子たちを、花婿が奪い取られる時とはイエスの十字架を、言われたのです。この話は、イエスが断食を軽んじたのではなく、今は断食をする時ではないことを暗に示されたのです。

 

1)ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々の心理

 彼らは断食を行うことで信仰を量ろうとしたのです。そしてその考え方を持って彼らはイエスの弟子たちを見ていたのです。あなたは「○○は信仰のバロメーター」の言葉を鵜呑みにしていないでしょうか。

 その考え方で相手を見ていないでしょうか。

 

2)イエスの心理

 イエスは相手の反応を気にせず、相手の語る内容を気にしていました。

 私たちは、相手にあわせないと悪く思われるんじゃないか、と考えて相手に合わせてしまうことがないでしょうか。

 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人たちは良く言えば、親切心から断食を強要したのでしょう。イエスの断食への返答が、婚礼の話であったことはイエスの意図が隠されていたと思います。

断食は食事を断つことです。婚礼につきものは食事です。婚礼の客が食事を断ったら、花婿の気持ちはどうでしょうか。

イエスは断食が大切な宗教行事だとしても、用い方が間違うと傷つく人がいると教えています。


2017年1月1日 元日主日礼拝

 

「再び出て行かれた」 マルコによる福音書2章13~17節

 

新年明けましておめでとうございます。

 

次にクリスマスと元日が日曜日になるのは2022年です。皆さんその年は何歳になられているでしょうか。そのとき、教会のクリスマスは、教会の元日礼拝はどんなでしょうか。あなた自身はどんなになっているでしょうか。

 「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。」(13節)

 朝起きてから寝るまでのいちにち、いちにちがさほど変化のない一日のように思えることがあります。同じことの繰り返しのように見えて、決して同じではないのが人生です。いちにち、いちにちの積み重ねが2022年のあなたをつくりあげます。

 

「イエスが、再び湖のほとりに出て行かれた」とき、新しい出会いがありました。

 イエスが、再び出て行かれたとき、イエスに出会った人たちの人生が変えられました。

 アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(14節)

 レビの家で食事会を開かれています。イエスの歓迎会だったかもしれません。

 ファリサイ派の律法学者はレビの家に集まって来た人たちを見て、「どうして彼は徴税人や罪人と食事を一緒にするのか」(16節)とイエスを批難しています。当時、食事は聖なる場所で、汚れを持ちこんではならないと考えられていたのです。

 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。

 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17節)

 

イエスが招くと言われた罪人は、徴税人や罪人と呼ばれている人たちのことです。この場合の罪人は、律法学者たちが律法を守らぬ(実際は守りたくても守ることのできない)者たちをさげすんでの呼び方でした。犯罪人、売春婦、乞食、船乗り、羊飼い、肉屋、皮なめし業者、下級労働者の多く、異邦人がこれに該当すると岩波書店発行の新約聖書、補注、用語解説には書かれています。

 イエスが言われた正しい人とは、ファリサイ派の律法学者のことだったのでしょうか。

 彼らは自称「正しい人」だったのではないでしょうか。イエスの彼らに対する皮肉が込められています。

イエスはいわれなき社会的差別や偏見で苦しんでいる人たちの側に立ち、差別や偏見を打ち壊した方です。また、イエスは魂の医者です。弱った魂(心)を治してくださる方でもあります。

 

再びイエスはあなたのところに訪れてきます。

 鈍感になってはいけません。私たちはファリサイ派の律法学者のようになってはなりません。


2016年12月25日 クリスマス礼拝説教要約

 

「時満ちて」 ガラテヤの信徒への手紙4章4節

 

パウロはガラテヤの信徒への手紙で、イエスの誕生をこのように書いています。

「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」

 

「時が満ちる」の「時」は、「何年何月何日」という単純な時間の数字のことではありません。

 神が定められた時です。

 「満ちる」です。あふれ出る。いっぱいになる。という意味です。神の御計画は場当たり的なものでも、また、イエスの誕生が偶然でもないということです。

 

旧約聖書のコヘレトの言葉(口語訳聖書の表題は「伝道の書」となっています)に「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(31節)、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(口語訳 311節)と書かれています。

 

「律法の下」とは、人間のしがらみの中― 矛盾、罪、差別、偏見などに縛られている世― にイエスは生まれたということです。

 

イエスはヨセフとマリアの子として誕生します。ヨセフとマリアの生きた時代は厳しい状勢でした。 ユダヤ人はローマ帝国によって人口調査の住民登録が命じられ、生まれ故郷で住民登録が義務付けられていました。ヨセフは身重の妻を連れてガリラヤからナザレまで旅をしなければなりませんでした。10代前半のマリアが産気づいた時、泊めてくれる宿もなく、仕方なく動物の飼育小屋でイエスを産みました。彼らは平凡な夫婦になるはずだったのにユダヤの王から命を狙われることになり、エジプトへ逃げなければならなくなりました。神の歴史に翻弄されたように見えなくもありません。しかし、そこに神の祝福が隠されているのを見逃してはなりません。

 

神は平凡なヨセフとマリアという夫婦に神の子の誕生を信じてゆだねられたのです。

二人には過酷なことでしたが、二人の神への信頼と愛と、お互いを思いやる愛が、危機を乗り越えさせ、赤ちゃんのイエスを守り育てたのです。 

 私たちはよく時間が解決するという言い方をします。しかし、そんなに単純ではありません。時間が解決どころか問題をこじらせたり、悲しみを深めたりすることもあります。

その時をわたしたちがどのように考え、生きるかがだいじになるのです。

 

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています 」  ローマの信徒への手紙828

 


2016年12月24日 クリスマスイブ燭火礼拝説教要約

「イエスの手」 ヨハネによる福音書 3章35節

 

「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。」

 その手とはどんな手だったのか?

 ヨセフとマリアのこどもとして誕生したイエスの手はしわくちゃの小さな手でした。

 大工の父の跡を継いで大工として働きています。ごつごつした手でした。

 そして、十字架上のイエスの手はどんな手だったでしょうか?

 

「祈りの手」アルブレヒト・デューラーの1508年の作品です。

 友人の手だけを描いた作品です。 彼は兄弟が多く、一人目の画家になるには経済的にはたいへんでした。しかし、彼には画家になるという夢がありました。また、画家になる夢を語れる友人もいました。友人の名はハンスです。ある日、彼らは夢をかなえるために、一人が働いて生計を立て、絵が売れるようになったら交代しようと話し合いました。ハンスは自分より絵の才能があるデューラ―が絵を描き、自分が働くと申しでました。ハンスは炭坑で働き、仕送りをし続けます。4年の歳月が過ぎ、やっとデューラ―の絵が売れるようになりました。しかし、その時には、ハンスの両手は震え、十本の指は曲がり、画家として繊細に絵筆を使うことはできなくなっていました。デューラ―はそのことを知って、詫びるためにハンスの家を訪ねます。デューラ―が家に入ろうとしたとき、家の中から、ハンスの、デューラ―の絵が売れるようになったことを神に感謝している祈りの声が聞こえてきました。その時のハンスの手を数年後に絵にしたのが、「祈りの手」です。

 

日本語の「兄弟」「友人」という意味のヘブライ語に、「ヤディド」というのがあります。

 「ヤード」は、「手」と言う意味、その二つ重ねがこの「ヤディド」です。

 「友人」とは、手と手を合わせるできる間柄、いざというとき黙って手を握り合える関係です。

 イエスは私たちを友と呼ぶと言われています。

 

イエスの弟子の一人トマスは、復活のイエスに会うことができませんでした。他の弟子たちの語る、復活のイエスに出会ったという言葉を信じませんでした。「手の釘の跡を見、つるぎで刺されたわき腹の後を見、そこに自分の手を入れて見ないと信じない。」と疑りの言葉を吐いています。

それから八日の後のことです。復活のイエスがトマスに現れ、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われました。

 トマスが見たイエスの手はどんな手だったのでしょうか。

わたしたちはクリスマスの祝いの日に、赤ちゃんイエスのかわいらしい手がやがてくぎうたれた手になることを忘れてはいけないと思います。


2016年12月18日 アドベント第4主日礼拝説教要約

 

「わたしたちの間に宿られた」 ヨハネによる福音書1章14~18節

 

今日の礼拝はアドベント(待降節)第4主日になります。

 

「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(14節)

 

「言葉は肉となって」とは、神(1章1節)は人間(「肉」の表現はヘブライ的表現です)となったということです。

 

1)イエスは神であった

 

「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。私よりも先におられたからである。」(15節)

 

バプテスマを授けていたヨハネは、イエスを私よりも先におられた、と語っています。

 

人間的には、この世に誕生したのはヨハネが先です。ヨハネの母(エリサベト)とイエスの母(マリア)は親せき関係であり(ルカによる福音書12656節)、ヨハネはイエスの年齢を知っていたはずです。

 

ヨハネがイエスを私よりも先におられたと言ったのは、イエスが私たち人間とは違う存在であることを示しています。

 

イエスは人徳を積んで神になったのではありません(もともと人間だったのが神となられたのではありません)。神が人となられたのです。

 

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られた。」(10節‐新改訳聖書)

 

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1節)

 

「わたしと父とは一つである」(1030節)

 

2)人間の姿となられたイエス

 

「わたしたちはその栄光を見た。」(14節)

 

皆さんよく御存じの「きよしこの夜」、もとは6節からなるドイツ語の歌詞で作られています。

 

日本語訳、英語訳賛美歌では、本来の3節、4節、5節が除かれています。私たちが3節として歌っているのは、本来は6節です。

 

私たちが歌う日本語訳の賛美歌では除かれている3節の歌詞は、「静かな夜!聖なる夜! 世界に救いをもたらした夜。黄金に輝く天から、神は最高の恵みを見せたもうた。人間の姿になられたイエスを。人間の姿になられたイエスを!」(大塚野百合さんの訳)

 

大塚野百合さんはご自身の本のなかで、「『私は、「人間の姿となられたイエスを」と訳しましたが、ドイツ語は一語で「人間の姿」を意味し、大変インパクトが強い言葉です。神の最高の恵みは、人間の姿になられたイエスを世界に見せてくださったことである。それがクリスマスだと歌っているのです。』と語られています。

 

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(18節)

 

日本人が罪を理解しにくい背景には、八百万の神々を信じていても、天地創造の神(私を造られた神)を理解できないことから来ているのではないかと思います。

 

 

 


2016年12月11日 アドベント第3主日

「すべての人を照らす光」 ヨハネによる福音書1章6~9節

 

今日の礼拝はアドベント(待降節)第3主日になります。

 

今週の土曜日、子どもクリスマス会があります。覚えて祈ってください。こどもたちを誘ってください。

 

アドベントの主日は、マルコによる福音書を離れて、ヨハネによる福音書から説教します。

 

ヨハネの福音書の著者は、イエスを「光」と呼び、「その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」と紹介しました。

 

このところから、3つの点を見ます。

 

1)まこと

 

イエスは「まことの光」として世に来られたお方です。「まことの」とあるのは、偽りの光が世の闇を照らしている現実があるからです。

 

コリントの信徒への手紙二 11章13~14節に次のように書かれています。

 

「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。」

 

偽りの光は、私たちを甘い言葉、巧みな言葉で誘惑してきます。

 

2)暗闇を照らす

 

暗闇を照らして見えてくるものはなんでしょうか。

 

①光によって罪が見える

 

罪と言う暗闇の中にいても、罪ある私たちはその罪の暗闇に溶け込んで、罪人であることが気づかないのです。特に、恥と汚れの文化に生きる日本人は、欧米諸国と比べて罪を理解するのが難しいのです。

 

私たちは罪あることに気づかないほど罪人なのではないでしょうか。まことの光であるイエスの言葉によって私たちは罪があらわにされるのです。

 

②光によって暗闇の中でしいたげられ、苦しめられている者たちが見える

 

イエスは、虐げられている者たち、片隅に追いやられている者たち、嘆きや苦しみの中にある者たちのところへ行かれて光となられたのです。

 

上の二つは、根の部分ではつながっているのです。

 

3)光について証する

 

「彼は証をするために来た。光について証をするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証するために来た。」(7~8節)

 

彼とはバプテスマのヨハネのことです。キリストを信じ受け入れた者は同じように、自らの言葉と生き方において光を証する者として立てられているのです。

 

「あなたがたは世の光である」(マタイによる福音書5章14節)


2016年12月7日 アドベント第2主日

 「人の子」   マルコによる福音書2章6~12節

 

 きょうの聖書のお話は、先週のお話の後半部分になります。

 

イエスのところに中風の人を運んできた人々の信仰を見て、イエスは中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました(5節)。その言葉に気を悪くした人たちがいました。

 

彼らは口にまでは出しませんでしたが、心の中でイエスは神を冒涜していると考えたのです(67節)。

 

イエスは彼らが心の中で考えていることを、ご自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」(811節)

 

すると、どうでしょうか。中風の人は癒され、起き上がりました。

 

易しいのは、目に見える変化がいらない点で「罪が赦される」の言葉です。しかし、ほんとうは「罪が赦される」ほうが、律法学者が心で考えたように難しいことなのです。

 

神以外に罪を赦すことができる方はおられません。イエスは罪を赦す権威をもっていることを彼らに納得させるために癒しをなさったのです。

 

私たちは互いに罪を赦しあっています。それを、なぜ、難しいと言うのか、疑問に思うでしょうか。

 

私たちが罪というとき、それは倫理的罪、道徳的罪、犯罪的罪です。しかし、イエス(また聖書)が罪と言うとき、それは神との関係における罪(原語の意味は「的外れ」)のことです。

 

 中風の人にイエスがなぜ、肉体の癒しよりも、罪の赦しを宣言されたのかは、聖書には書かれていません。大方の人は、目に見える病のいやしの現象だけを求めて、いやしをして下さる神との関係まで心がいかないものです。中風の人は肉体のいやしよりも、霊的な救いを求めていたとも考えられます。

 

多くの人は、理解しないし、求めないのですが、どちらが難しく、どちらが大切かと言えば、内面のいやし(霊的いやし、魂のいやし)です

 

 

 

「人の子」、「神の子」の名称は、イエスに特有な呼び名ではなく、一般にある呼び方です。

 

イエスご自身は、ご自分のことを「人の子」と言われ、「神の子」という言い方はしていません。

 

他の人たちがイエスを「神の子」と呼んだのです。

 

「人の子」の言い方には、特別なイエスなりの思いがあったのではないでしょうか。

 

神が人となって来て下さったことを意識して「人の子」と自らを言われていたのではないかと思います。

 

イザヤ書に救い主(メイア、キリスト)の預言があります。

 

「かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように彼の姿は損なわれ、人とは見えず もはや人の子の面影はない。」(イザヤ書5214節)イエスは神が人となって来られた方です。

 

 

 

「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコによる福音書1045節)

 

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカによる福音書1910節)

 

 

 


2016年11月27日

 

「協力」   マルコによる福音書2章1~5節

 

 

キリスト教会暦では、今日からアドベント(待降節)に入りました。

 世界バプテスト祈祷週間が今日から1週間、12月4日までになっています。

 

今日の聖書箇所の説教では、世界バプテスト祈祷週間を意識してお話をいたします。

 また、来週の礼拝説教は、今日の続きの記事(2章6~12節)になりますが、待降節を意識してお話する予定です。

今日の箇所は、イエスが中風の人を癒したお話です。

 

中風とは、普通脳卒中、脳出血の後遺症として現れるもので、半身不随、顔面、腕、脚の麻痺、運動障害などの後遺症がでます。

イエスの噂を聞きつけて、大勢の人がイエスのもとへ集まってきました。その中に4人に連れて来られた中風の人もいました。家の戸口まで人がいっぱいで、家の中に入り、イエスのそばへ行くことができません。

そこで、彼らは、家の屋根から寝ている病人の床(担架)をつり降ろすという手段にでました。

当時の家の造りは簡単で、屋根に上るのも、屋根をはがして穴をあけるのも、それほど難しいことではありませんでした。

 

注目したいのは、イエスの反応です。

イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。(5節)(イエスの「子よ、あなたの罪は赦される。」の言葉は来週お話します。)

イエスが見ていた信仰は、中風の人の信仰ではなく、連れて来た彼らの信仰でした。

彼らは、イエスがこの中風の人を癒してくださると信じていました。でなければ、ここまで大胆な行動はとれなかったでしょう。神の与えた確信は信仰者を動かす原動力になります。

彼らの人数が4人だったことはマルコの福音書に記述されています(マタイによる福音書、ルカによる福音書は人数に関しては記述していません)(3節)。担架がどのような物だったかはわかりませんが、人数が多くても、少なくても担ぎにくいのが担架です

担架を運ぶには、4人の息が合っていることが大切です。協調、バランスが必要です。

一人でも早歩きだったり、高くあげるなどしていたら、じょうずに担架は運べません。

「協力」なくしては、達成できなかったことです。

 

アフリカのことわざにこんなことわざがあります。

If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.
「速く行きたければ一人で行きなさい。 遠くまで行きたければ一緒に行きなさい。」

 

世界バプテスト祈祷週間は,中国でイエス・キリストの福音を宣べ伝えたロティー・ムーン宣教師の祈りと幻と信仰を引き継いだ米国南部バプテストの女性たちからその歴史は始まっています。

 

当教会では毎年この時期、世界バプテスト祈祷週間をエステル会が責任を持って行っています。

 

世界宣教も「協力」なくしてなし得ないことです。