西南学院大学神学部専攻科卒業

 福岡県出身

 直方教会 宮崎教会 小樽教会の牧師を経て

 2011年7月より当教会牧師

        趣味:スキー、登山、ギター、ウクレレ

 

         松田裕治牧師による主日礼拝説教要約 

 

Youtube(ユーチューブ)で礼拝説教を動画でご覧になれます。


2018年11月18日

 

「お前はメシアなのか」 マルコによる福音書14章53~65節

 

  ユダの裏切りによって捕えられたイエスは、大祭司のところへ連れて行かれます。

 そこには、祭司長、長老、律法学者たちが集まっていました。

 彼らは最高法院(サンヘドリン)の構成メンバーです。最高法院は大祭司を議長に71名の議員で構成され、ユダヤの律法に基づいて裁判を行う権限をもっていました。

  「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。」5556節)本来なら嫌疑不十分、不起訴になるところですが、最初から死刑ありきの裁判であったことがわかります。

 大祭司が立ち上がり、真ん中に進みでて、イエスに尋ねたのに、イエスは何も答えなかった(6061節)。そこで、再び大祭司はイエスに尋ねます。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」61節)

 大祭司はイエスにお前はメシア(キリスト、救い主)かと質問をしています。

 大祭司は「お前はほむべき方の子か」と質問し、「お前は神の子か」とは質問していません。

 大祭司は神と言う言葉を意識的に避けているのです。律法は神の名をみだりに唱えることを禁じていたからです(出エジプト記207節)。ましてや神の名をイエスに用いるのを良しとしなかったのです。

 その大祭司の質問にイエスは「そうです」と答えています(62節)。

 もとのギリシア語では「エゴ エイミー」が使われています。英語で言えば、「I am (アイ アム)」です。

ここで思い出すのが、モーセの話です。エジプトの地よりイスラエルの民を導き出したモーセです。

神はエジプトの地で過酷な生活を余儀なくされていたイスラエルの民を救い出すためにモーセを遣わすことにしました。しかし、モーセはその大役にしり込みして、断る理由を言い出します。その一つにイスラエルの先祖の神の名を聞かれたら何と答えたらいいでしょうか、というものがありました。(出エジプト記313節)

 

神はモーセに「わたしはある。わたしはあると言う者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」14節)

 

英語では「I am (アイ アム)」です。

イエスの返答は自らが神宣言をされた瞬間とも言えます。

 だから、イエスは神への冒瀆罪で死刑の宣告を受けたのです。

 

ところ変われば法律も変わる、です。

日本で自分のことを神と言ってもおかしな人か偉人かのどちらかとは思われても、処刑されることはありません。

イエスは不利な証言をされても何も言いませんでした。

 「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。60節)とあります。

 私たちが神の存在を否定するような証言をしても、神は黙って聞いておられます。

 しかし、神は不在でありません。黙って聞いておられるのです。

 


2018年11月4日

 「見捨てられたイエス」マルコよる福音書14章43~52節 

 

  イエスは弟子たちをともなってゲッセマネというところで祈り終えた時のことです。

 

イエスを裏切ったユダがイエスを捕らえに来た人々を先導してきたのです。

 

ユダは前もってイエスを捕らえるための合図を決めていました。その合図は「わたしが接吻する人がイエスだ」でした。ユダはイエスに近づき「先生」と言って接吻した。

 

この接吻(キス)はあいさつに用いるときの接吻です。事もあろうに、ユダはあいさつの接吻(キス)を人を裏切る道具にしたのです。

 

 ユダがイエスに接吻すると、捕らえに来た人々がいっせいにイエスに手をかけます。

 

そのあと、弟子たちと捕まえに来た者たちとの間に小競り合いはあったのですが、弟子たちはイエスを置き去りにして一目散に逃げだしています。

 

「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」50節)

 

みんなが見捨てて逃げても私はあなたを見捨てて逃げたりしません、と弟子たちは異口同音に語っていたのですが、あの言葉は何だったのでしょうか。あなたとご一緒に死ななければならないなら死にます、とのあの言葉はどこに行ってしまったのでしょうか。

 

 「わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕えなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」49節)のイエスの言葉は、神はすべてをお見通しだと言われているように聞こえます。

 

 イエスは「あなたがたを捨てて孤児にはしません。」(新改訳聖書訳、ヨハネによる福音書1418節)と言われています。また、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」(ローマの信徒への手紙58節)と書かれています。

 

 イエスはご自分を見捨て逃げてしまった弟子たちを見捨てようとはなさらなかったのです。

 

マルコによる福音書の著者は一つのエピソードをここに載せています。

 

一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。51節、52節)

 

 若者は捕まりそうになり必死で逃げようとしたのです。その時、1枚羽織っていた亜麻布の服が脱げ、真っ裸で逃げたというのです。こっけいにも見えます。

 

なぜこのことが聖書にエピソードとして載っているのでしょうか。

 

あくまで私の想像ですが、復活のイエスに出会った弟子たちが集まった時、ゲッセマネの事件が皆の話題になったのではないでしょうか。その中に、この若者もいてあの時のことを面白可笑しく話したのです。

 

若者にとっても、みんなにとっても懐かしい思い出として語られたのです。その話が語り継がれていったのです。そして、マルコによる福音書の著者はこのことを書いたのです。

 

自分たちはラビ(先生)を見捨てて逃げてしまったが、ラビ(先生)は私たちを見捨てなかったことへの感謝がそこにはあったのではないでしょうか。

 

人は神を時と場合によっては裏切っても、神は人をぜったいに見捨てない。このことを心に留めておきましょう。

 


2018年10月28日

「同じ言葉で祈られた」マルコよる福音書14章3242 

 

 何度も同じ祈りを繰り返したことはありませんか。神を信じて祈っているのに、不安になって同じ祈りを何度も繰り返してしまう。

そんな時、聖書の言葉を知っている者の中にはイエスの語られた言葉を思い出して、自分は不信仰ではないかと思う方がいます。

イエスが語られた言葉は。例えば、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコによる福音書1124節)とか、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイによる福音書678節)などです。

 

 イエスの祈りは信仰者にとって、手本になる祈りです。

きょうの聖書箇所はイエスがゲッセマネというところで祈られた箇所です。私たちはこの箇所から祈りを学びたいと思います。

かなり緊迫した中で祈られた祈りであることがわかります。3人の弟子を連れて行きますが、イエスは彼らに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」(34節)その時のイエスの様子は「ひどく恐れてもだえ始め」(33節)たとあります。

イエスは危険が迫っているのを感じていたのとは正反対に弟子たちは緊張感なく眠り込んでしまっていた中でイエスは祈っています。

 私たちが注目したいのは「同じ言葉で祈られた」(39節)というところです。

最初に述べたイエスの祈りについての言葉とは矛盾します。言行不一致とも言うべきところです。

イエスが繰り返した祈りは、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように』」(35節、36節)です。杯はご自身が受ける受難のことです。イエスの願いは苦難を取り去ってもらうこと、しかし、父なる神の御心に従いたいとの思いもある、心の格闘の祈りです。神の御心に従おうと決心したのに、弟子たちが眠っていることで力が失せてしまった。心の糸が切れてしまったのではないでしょうか。だから、もう一度、同じ言葉で祈らなければならなかったのです。

 

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点に

おいて、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙41516節)大祭司とはこの場合はイエスのことです。イエスは私たちと同じです。

だから、祈りにも格闘があったです。イエスは人間の弱さを知っておられたのです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(38節)と言われたのです。

異邦人のようにくどくと祈るな、とは、形だけの祈り。呪文の祈りのことです。

同じことを何度も祈ることは悪いことではありません。信仰が強められる、確信が強められるのが祈りです。

イエスは祈り、弟子は眠った。祈らない弟子たちは誘惑に陥り、イエスを見捨てて逃げ去りました。

 


2018年10月21日

「自分はだいじょうぶ」マルコよる福音書14章2731 (14章66~72節)

 

 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。」(27節)

イエスはあなたがたはわたしを見捨てて逃げ去ると言われたのです。

ペトロはこれを聞いて、かなり憤慨しています。彼は自分はだいじょうぶとのかなりの自信があったようです。みんながあなたを見捨てて逃げ去っても、わたしはあなたを見捨てて逃げたりしません。死ぬことさえ覚悟していますと言っています。

 

 わたしたちはどうでしょうか。「たばこも酒もいつでもやめよおうと思えば止められる」とか、言っている人はいませんか。「わたしはだめです」という人の中には、謙遜を装っているだけで、本心は「自分はだいじょうぶ」と思っていたりする人もいます。ちゃんとした根拠もないのに妙な自信だけがあるのです。

 

 イエスはペトロに「はっきり言っておくが、あなたは今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(30節)と言いました。イエスの思い過ごしではありませんでした。

イエスの言われたことは当たってしまいました。

食事が終わった後、イエスは弟子を連れて祈るためにゲッセマネの園へでかけています。そこでイエスは律法学者たちによって捕らえられてしまいます。その時、弟子たちはイエスを見捨てて逃げ去ったいます(50節)。そして、イエスの捕らえられた大祭司のいるところへこっそり行きますが、イエスの言われた通りに、イエスなど知らないと鶏が二度鳴く前に、三度知らないと言ってしまい、イエスの言われたことを思い出して、鶏ではなく今度はペトロが泣き出しています(6672節)。

「あなたを見捨てて逃げ出さない。」の言葉はどうなってしまったのでしょうか。

ペトロのプライドが音を立てて崩れ去ったのです。そして、それは自分の弱さに気づいたときでもあります。

さて、ここで私たちは考えてみたいと思います。

イエスはなぜ、鶏が鳴くといわれたのでしょうか。

朝方に鶏が鳴くのは当たり前だという理由だけでしょうか。ペトロに別のしるしで知らせることもできたのではないでしょうか。

当時鶏を家で飼っている光景はさほどめずらしくはなかったと思われます。

ペトロは鶏に鳴く声を毎日のように聞いたのです。そのつどペトロはイエスを知らないと裏切った自分のふがいなさと弱さを思い、イエスの愛の深さをかみしめたのではないかと想像します。

 

ペトロと並ぶ重要人物にパウロがいます。彼は重い病気を患っていました。

彼は自分の病気を一つのとげと呼び、自分が思い上がらないようにサタンからの使いだと言っています。

病気が治るように神に祈ったとき、神から「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と諭され、「弱さは強さ」と理解します(コリントの信徒への手紙二12710節)。

自信は時には不幸かもしれません。自分には神の助けなどいらないと傲慢になり、他の人の弱さにも気づけない人がいます。

自分の弱さを知ることは恥ではありません。神の恵みを受けとることができるからです。

 


2018年10月14日

 

「悲しい言葉」 マルコによる福音書14章18~26節

 

 

 

 この場面はイエスと弟子たちとの「最後の晩餐」です。

 

 イエスが用意していた家に弟子たちと行かれ、「過越の食事」であり、弟子たちとの最後の晩餐を

 

行ったのです。

 

 その食事の席上でイエスは驚くべき発言をなさいました。

 

「はっきりいっておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」18節)と。

 

イエスはこの中に裏切り者がいるとはっきりと言われたのです。言葉を濁して話しておられません。

 

ストレートです。

 

その言葉を聞いた12弟子に動揺が起こっています。弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めて19節)、います。

 

イエスは言われた。「12人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。

 

人の子(ご自身のこと)は、聖書に書かれてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」2021節)

 

 イエスと同時に鉢に食べ物を浸しているのはイスカリオテのユダです。

 

きょうの聖書箇所の少し前にこう書かれています。12人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡されるかねらっていた。1011節)。

 

 ユダはどんな思いでイエスの話されたことを聞いていたのでしょうか。

 

他の弟子たちはユダの様子がおかしいとは思わなかったことから察するに平然としていたのでしょうか。

 

 この後、イエスは食事を行っている中で、私たちが「主の晩餐」と呼んでいるものを行っています。

 

イエスはパンとぶどう酒をご自身の体と血にたとえて、裂かれたパンを自分の体と呼び、杯を多くの人のために流されるわたしの血、契約の血と呼んでいます。これは、イエスの十字架の死を指し示し、表している行為です。罪の赦しの宣言(マタイによる福音書2628節)であります(コリントの信徒への手紙一57節)。私たちの「主の晩餐式」では、杯(ガラスコップ)は一人ずつ渡しますが、この時は一つの杯の回し飲みでした。結束の強さみたいなものを感じます。

 

イエスはこの時、「神の国で新たに飲むその日まで」(25節)と語っていますが、天国で再びあなたがたと食事を一緒にするまでと、再会の約束です。

 

 さて、私たちはここで重要なことに気付くはずです。この主の晩餐にユダも同席していて、パンと杯にあずかったと言うことです。イエスはユダが受けることを拒絶されていません。イエスが「多くの人のために流す」の「多くの」はセム語的表現で「すべての人」と言う意味です。

 

 イエスは最後までユダを仲間として受け入れ、罪の赦しの宣言をなさり、天国での再会を約束されています。

 

 そのイエスが、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

 

21節)と言われたのです。愛の中から出てきたどうして分かってくれないのか。わかってほしい、との悲痛な叫びのように聞こえてきます。

 

 私たちの心にもユダが住んでいます。私たちもイエスにこの言葉を言わせてはならないのではないでしょうか。

 


2018年10月7日

 

「過越の食事」 マルコによる福音書14章12~17節

 

 

 

 きょうは10月第一日曜日です。第一日曜日には主の晩餐式を執り行っています。

 

説教の後、主の晩餐式を執り行います。

 

なぜ、主の晩餐式を教会は執り行うのか、そのわけがきょうから3回行う説教の聖書箇所にあります。

 

 

 

主の晩餐式を行うことが書いてあるのは、コリントの信徒への手紙一 112334節です。

 

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、

 

引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べてこの杯を飲むごとに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。(コリントの信徒への手紙一 112326節)

 

 わたしが主の晩餐式を執り行うときには、この聖書の言葉を用いています。

 

 パウロが「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」と言っているのは、この出来事のことです(142225節)。

 

 

 

 イエスが弟子たちに準備させた食事は、「過越の食事」(1412節、16節)です。

 

イエスは「過越の食事」を行う場所を前もって用意されておられ、夕方に準備されていた場所に弟子とともに行かれています(141216節)。

 

 

 

イエスが弟子たちに準備させた「過越の食事」とは何でしょうか。

 

「過越祭」に行う食事のことです。「過越祭」はイスラエルの民のエジプト脱出を記念するユダヤの三大祭りの一つです。イスラエルの民が神によってエジプトから救い出された時、エジプト人の長子と家畜の初子を滅ぼした神の使いが、イスラエル人の家を「過ぎ越し」たこと(出エジプト記12章)にちなんでつけられた名称です。

 

「過越祭」ではこの時のことを再現するように、神殿で小羊を屠り、その夕方、家族でその小羊とともに、種なしパン(イースト菌の入っていないパン)を食し、お祝いをしました。

 

 

 

過越祭には、神殿で小羊か屠られていますが、

 

イエスが弟子たちとした最後の食事(最後の晩餐)に小羊が屠られたのは意味があることです。

 

 

 

バプテスマのヨハネがイエスを見た時、イエスのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と叫んでいます(ヨハネによる福音書1章29節)。

 

また、パウロは「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。」とイエスの十字架の死と結びつけて語っています(コリントの信徒への手紙一 57節)。

 

 

 

家の鴨居と入口の2本の柱に小羊の血を塗られた家が救われたように、イエスの血によって私たちは救われるのです。

 


2018年9月30日  召天者記念礼拝

 

「死ぬ日は生まれる日にまさる」 コヘレトの言葉 612節~76

 

 

 

本日の礼拝は「召天者記念礼拝」です。

 

「永眠者記念礼拝」と呼ぶところもあります。

 

 

 

きょうの説教題の「死ぬ日は生まれる日にまさる。」はコヘレトの言葉71節の言葉です。

 

生まれる日は喜びで、死ぬ日は不幸だと言われていません。かえって死ぬ日は生まれる日にまさる、と

 

聖書は.語るのです。

 

 

 

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記121節)そことは、私たちをお造りになった創造主なる神のもとに帰るということです。

 

そして、イエスはこう言われています。

 

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしイエスを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネによる福音書1413節)

 

 

 

 

 

「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。」(コヘレトの言葉612節)

 

著者は人生の終わりを感じるような年齢を迎えて、自分の人生を振り返ってこれでよかったのか、とふと考えてしまったのです。

 

著者は、人生には終わりがあることを知り、向き合い、生きることは大切なことだと考えたのです。

 

「弔いの家に行くのは 酒宴の家にいくのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ。悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。賢者の心は弔いの家に 愚者の心は快楽の家に。」724節)

 

 若いころはおもしろおかしく人生を送ればそれで良いと考えていた。

 

しかし、身近な人の死に出会ったとき、まじめに人生について考えるようになったのです。

 

新改訳聖書2017訳は72節を次のように訳しています。

 

「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終りがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」

 

震災を経験された方の多くが命の大切さを、生きることを真剣に考えるようになりました、と言われているのもその一つではないでしょうか。

 

 

 

召天者記念礼拝は、私たちに私たちの命もいつかは終わることを、教えてくれるのではないでしょうか。



2018年9月23日

 

「なぜこの人を困らせるのか」 マルコによる福音書14章3~11節

 

 

 

 「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」9節)

 

この言葉はイエスの語られた言葉です。

  イエスに、あなたがしたことはいつまでも語り伝えられる、と言ってもらえたのですから、ものすごくありがたい言葉です。ところが、そこに居合わせた何人かはこの女の行為に憤慨して「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。」4節)と不快感をあらわにしています。

 

 この違いはどこからでてきたのでしょうか。

 

 まず、この話がどのような話しか手短にお話します。

 

イエスがベタニアのシモンの家で食事の席に着いておられた時のことです。一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油が入った壺を持って来て、壺を割り、香油をイエスの頭に注いだのです。

 

このことに、何人かがもったいないことをすると女を厳しく責めたのです。彼らはこの香油を300デナリオン以上の値段(1デナリオンはおよそ1日の賃金に相当する)だと推定しています。

 

しかし、イエスは、「するままにさせておきなさい。なぜこの人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」と女をほめ、貧しい人たちへの援助ならこれからいくらでもできるが、今しかできないわたしの埋葬の準備をしてくれたのだ、と話されたのです。そして、(最初に話した)福音が語られる場面ではこの女の行為も語られる、とありがたい言葉を女にかけられたのです

 

 

)彼らの言い分

 

 女を厳しくとがめた時の彼らの言い分は、「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」5節)でした。

 

イエスは「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。」7節)と言われていますが、あなたたちは貧しい人々のことを本気で気にしていますか、との思いが隠されていたのではないでしょうか。「貧しい人々に施す」ということは誰もが否定できない言葉です。イエスは彼らがそれを口実にしていることを知っておられたのです。

 

2)イエスの死の葬り

 

「なぜ、この人を困られるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」68節)イエスは女の行いが埋葬の準備だと理解されたのです。

 

「福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられる」9節)

 

イエスの死と福音は切り離せないことなのです(福音理解に欠けてはならないのは、イエスの死です)。イエスの死が誰のためであるのか、です。

 

また、一人を大切にできない者は多数を大切にできないということ。目の前の一人の人の苦しみを見過ごす人は大勢を助けることなどできないということなのではないでしょうか。

 


2018年9月16日

 

「目を覚ましていなさい」 マルコによる福音書13章32~14章2節

 

 

 

 イエスは世の終り、世の終わりの前兆の話しを締めくくるにあたり、話されたのがきょうの箇所です。 

 

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」32節)

 

「子」とは、イエスご自身です。このことを理由にイエスは神ではないと、結論づける人たちがいますが、イエスは初めから神です。しかし、この地上ではイエスは神ではなく、人だった、ということです。

 

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピの信徒への手紙267節)

 

「キリストは弱さのゆえに十字架つけられました。」(コリントの信徒への手紙二134節)、

 

「この大祭司(イエス)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ人への手紙415節)

 

(身分を隠して旅を続ける水戸の御老公様とは違います)

 

 

 

この箇所は、いつイエスが帰って来られても良いように、僕たちに仕事を割り当て、旅にでかけた主人のたとえ話で信仰の目(霊的な目)を覚ましておくことの重要さを教えています。

 

「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。」(テサロニケの信徒への手紙一41516節) 

 

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。」3334節)

 

 門番は教会でしょうか。あるいは牧師でしょうか。外敵から人々を守る役割です。

 

僕たちとは私たち一人一人のことです。私たち一人一人には主人(神)から与えられた仕事の割り当てが与えられています。責任を持って行うことが求められているのです。

 

サボっているわけにはいきません。なぜなら、「いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からない」35節)からです。

 

最悪なのは、主人が帰って来たときに眠っていることです。

 

「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことはすべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」3637節)

 

 

 

このたとえ話でイエスは「目を覚ましていなさい」といくども言われています。

 

 私たちが、自分が眠っていたのに気づく時はいつでしょうか。眠りから覚めた時です。眠っている間は自分が眠っていることはわかりません。

 

目を覚ましておくためにどうすれば良いのでしょうか。

 

①刺激です。何かに没頭していると眠くならないことがあります。自分に喜ばしい刺激だけでなく、時には、嫌な刺激(試み、苦難)も目を覚ましておくのに役立つのです。 

 

②起こしてくれる人をそばに置くことです。

 

イエスがゲッセマネというところで弟子と祈っていた時のことです。眠ってしまった弟子をイエスが起こす場面があります。そして、イエスは「心は燃えていても、肉体は弱い。」(1438節)と言われました。私たちの肉体は弱いのです。だから、眠っているあなたを起こしてくれる人をそばにおくことです。あなたに声をかけてくれる信仰の仲間がいることは大事です。

 


2018年9月9日

 

「神の言葉は滅びない」 マルコによる福音書13章28~31節

 

 

 

 イエスは弟子の世の終わりとその前兆についての質問に答え(13327節)― いわゆる小黙示録と呼ばれているところですが ―、その答えの終わりに一つのたとえを語られています。それがきょうの箇所です。

 

「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。

 

それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」2829節)

 

イエスのこのたとえはわかりやすいのか、わかりにくいのか、どちらでしょうか。

 

いちじくの生育のことをある程度知っていなければ、夏の近づくころ、いちじくの枝が柔らかくなり、

 

葉が伸びるとわからないのではないでしょうか。

 

イエスの話を聞いていた弟子たちはいちじくの木の生育のことは当然知っていたのでしょう。

 

世の終わりについても同様です。世の終わりの前兆を知らなければ、世の終わりが来ていることがわからないのです。

 

だから、イエスが語った世の終り、世の終わりの前兆の話は大事になるのです。

 

「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起るのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」29節)

 

 聖書を学ぶことはこれらのことに惑わされないためでもあります。

 

 

 

「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」3031節)

 

ほかにも似たようなみ言葉があります。

 

「草は枯れ、花はしぼむが私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ書408節)

 

「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(ペトロの手紙一12425節)

 

 

 

 ヨハネによる福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネによる福音書11節)ではじまります。

 

 人の言葉は人間が有限なように限界があります。しかし、神の言葉は神が無限であるように限界がありません。

 

 

 

パウロがキリスト教の弁明をするためにローマに船で護送されたときのことです。パウロはしばらく船を港に停泊させることを忠告しましたが、受け入れられませんでした。

 

護送の責任者(百人隊長)はパウロの言葉よりも船長や船主の方を信用して出航させました。

 

大多数の意見も出航すべきでした。

 

暴風によって船はパウロの忠告どおり難破しそうになります。そのとき、彼らを助け、導いたのは、神の言葉でした。(使徒言行録27章)

 

「わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」2725節)

 

 

 


2018年9月2日

 

「苦難の後の栄光 マルコによる福音書13章24~27節

 

 

 

先週同様に、きょうの箇所から導き出されることを、私たちの人生にも当てはめていきたいと思います。

 

世の終わりと私たちの人生の終わりと同等に置くのは大げさではないか、と思いますか。

 

しかし、苦しみの中におられる方にとっては大げさではないのではないでしょうか。

 

 

 

「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」2425節)すでに旧約時代にアモスやイザヤによって預言されました。

 

「主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。」(アモス書520節)

 

「天のもろもろの星とその星座は光を放たず 太陽は昇っても闇に閉ざされ 月も光を輝かさない。」(イザヤ書1310節)

 

 

 

「それらの日には、このような苦難の後」と、苦難に追い打ちをかけるような苦難が続くのです。

 

 私という宇宙(からだのことです)のなかで、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」(2425節)です。

 

 

 

しかし、聖書は、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は、天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」と言います。

 

旧約聖書では「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り 『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え 彼の支配はとこしえに続き その統治は滅びることがない。」(ダニエル書71314節)、と預言されました。

 

 

 

「人の子」とは、イエスご自身のことですが、イエスがこの地上に大いなる力と栄光を帯びて再びこられるのです。

 

西洋のことわざに「夜明け前が一番暗い」というのがあります。究極の暗闇と思える先にイエスの光が輝くのです。

 

 

 

「『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』という者がいても信じてはならない。」(21節)

 

と言われたイエスが、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書1820節)と、イエスを信じる群れの中にイエスはともにおられると言ってくださっています。

 

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書2820節)

 

イエスが再臨なさることは私たち人類にとって新たな場面の始まりですが、イエスはその時を待つことなくいつも私たちと共におられるのです。



2018年8月26日

 

「苦難の前に」 マルコによる福音書13章14~23節

 

 輪廻思想で育ってきた者には新しい教えです。輪廻とは簡単に言えば、何度も人は生まれ変わるということで(人間に生まれ変わるとは限りません)。

  それに対して、キリスト教は「初めがあり、終わりがある」との終末を説いています。終末とは世の終わりです。キリスト・イエスが再びこの世に来られ、今の世は終り、新しい世が始まるという教えです。

 

この箇所はイエスの弟子たちの質問に答えて、世の終わりの前兆と世の終りについて教えている箇所になります(きょうの箇所は先週の箇所の続きです)。

 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら  - 読者は悟れ -、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」1314節)と具体的に行うべき行動を教えています(1416節、21節)。「憎むべき破壊者」とは、皇帝カリグラが神殿に自分の像を建てようとしたこと、あるいは、ローマ軍司令官ティトゥスが選ばれた大祭司以外入ることが許されていない至聖所に入ったことではないかと言われています。共通しているのは神を畏れない、不届きな、傲慢な者たちのことで、そのように、神の権威の座に土足で足を踏み入れる者たちがでてくることを暗示しています。参照:テサロニケの信徒への手紙二 214節)

 

 きょうの箇所から導き出されることは、私たちの人生にも当てはめることができるものではないでしょうか。

 1)憎むべき破壊者  

 

 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら」14節)

 

私たちの尊厳を踏みにじる者たちがずかずかと入り込んで来たら、もうだめだとあきらめることなく、安全な所に逃げることです(1416節)。また、神以外の者に頼ることをしないことです(2122節)。

 

2)私たちの人生の終わり

 

 「そういうことは起こるに決まっているが、まだ終わりではない。」7節)

 「それらの日には、神が天地を創られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。」19節)

 私たちの人生の終わりは自分で決めることができるものではなく、神が決められることです。

 

3)やるべきこと、できること

 私たちの人生が終わりに見えても、私たちができること、やるべきことがある。 私たちは神に状況を変えていただくように祈ることができます。

 このことが冬に起こらないように、祈りなさい。」18節)

 また、前もって言ってくださったことを、悟ること(22節、14節)です。

 


2018年8月19日

 

「惑わしに弱い」 マルコによる福音書13章3~13節

 

 

 

古今東西いつの時代にも異常気象による暴雨風、あるいは地震・津波・火山噴火、疫病など天変地異が起こるたびに、人々はそこに不吉なものを感じ、神仏の怒りや祟りと信じてきた歴史があります。

 

そして、人々の恐れにつけ込み、誤った教えを広める者たちも出てきました。

 

 天変地異が起こるたびに、世の終わりを説く怪しげな者たちも出てきました。

 

科学が進歩した時代でも、惑わされる人たちがいるのが現実です。優秀だと思われていた人たちがオウム真理教(現在のアレフ)というカルト集団に惑わされ、殺人者になってしまったように、です。

 

残念なことですが、聖書を用いてキリスト教を名乗る者たちによってもそれは起こりました。

 

私たちは人知を超えた出来事に出合うと、時には冷静な判断ができなくなり、惑わされることがある弱い者です。

 

だからこそ、惑わされないように、聖書の教えをしっかり覚えておくことが大事です。

 

 今日の聖書箇所はイエスが世の終わりについて語っておられるところです。

 

 イエスの弟子たちはイエスがエルサレム神殿の崩壊を告げたのを聞いて(1312節)、世の終わりと結びつけて考えたようです。

 

「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」とひそかに尋ねたとあります(34節)。

 

それに対して、イエスは話し始められた(5節)。イエスが話された中から、4つのポイントを挙げ,お話します。

 

 

①自らを救い主(メシア、キリスト)と名乗る者が出て来て、多くの人を惑わす

 

「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」56節)イエスが忠告したように、過去に大勢のペテン師が自らを「キリスト」「メシア」、ある者たちは「ブッタ」と名乗っています。 

 

 

天変地異が起こっても、世の終わりではない。それは、始まりにすぎない

 

経験したことのないような未曾有の出来事が起るたびに、世の終わりを宣伝する者がでてきます。

 

世の終わりの日付までも預言し、全財産を献金させたり、集団自決した事件も過去に度々起こりました。イエスは「そういうこと(未曾有の出来事)は起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」7節)、「これらは産みの苦しみの始まり」8節)「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」10節)と言われています。

 

 

③キリスト者が立たされる場はキリスト者にとっては証しの場である

 

「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に

 

立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。

 

引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと執り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」911節)

 

マルコによる福音書の著者はこのような場面に出会った可能性があります。イエスの語られたことを「その通りだった」と受け止め、イエスの言葉を書き記したのではないでしょうか。

 

 

④耐え忍ぶ

 

「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを、希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙535節)

 


2018.8.12

 

「大切なものが残る」 マルコによる福音書12章41~13章2節

 

 

 

 きょうの箇所は、イエスの感嘆と弟子の感嘆のコントラストがわかるところです。

 

イエスは貧しいやもめわずかばかりの献金に感嘆し、弟子たちは神殿の豪華さに感嘆しています。

 

 

 

 ある日のエルサレムの神殿での出来事です。イエスがご覧になっていた光景は特別な光景ではありません。日常的な光景です。イエスは人々が賽銭箱に献金するのをご覧になっていたのです。

 

大勢の金持が大金を献げています。しかし、イエスが興奮したのは、一人のやもめの献金でした。

 

賽銭箱に入れた金額は大金とは比べ物にならない、小額でした。

 

はっきり言っておく」は、「(原語では)アーメン」です。イエスが話しの初めを「アーメン」の言葉からするのは大切な教えの時です。

 

 

 

イエスは知っておられたのです。このやもめが献げたのが、生活費の全部だった(1244節)ことを。

 

献げた金額としてはごくわずかな金額です。しかし、イエスはやもめには、この金額が大金だったことを知っておられたのです。

 

なぜレプトン銅貨2枚の中の1枚を手もとに残さなかったのか、なぜ生活費の全部を献げたのか、その理由には聖書は沈黙しています。この時、やもめは献金しながら何を祈ったのでしょうか。イエスはこのことも含めて全部ご承知だったのです。

 

「イエスは彼らが心の中で考えていることを、ご自分の霊の力ですぐに知って言われた。」(マルコによる福音書28節)

 

 私たちは表面だけ(献金額のみ)を見ますが、イエス(神)はすべてを見てくださっています。

 

 

 

弟子たちの感嘆のコントラストと言いましたが、弟子たちが興奮したのは、神殿の建物でした。

 

弟子の一人が「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、何とすばらしい建物でしょう。」

 

ところが、イエスの心は冷めていました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(132節)(イエスの言葉通りに、この神殿は西暦70年にローマによって破壊されてしまいます。)

 

 弟子たちは先ほどのイエスの言葉を理解していません。心にも留めていなかったのです。だから、神殿と言う建物、すなわち目に見えるものにのみ心を奪われ、興奮し、感嘆したのです。

 

その神殿の内で数々のイエス(神)を悲しませること(マルコによる福音書111517節)が行われていたのを気にも留めていないのではと思わざるをえない。

 

 

 

「(神は)人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主(神)は心によって見る」(サムエル記上 167節)

 

 

 

 イエスは香油を自分の頭に注ぎかけた女の行為を「この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マルコによる福音書149節)と言われています。

 

残るものはたとえ愚かに見えようとも、貧弱に見えようとも、イエス(神)のことを考え行ったことです。神とともに歩んだ人生のみが大切なものとして残るのです。

 

私たちもイエスが興奮し、感動したように、同じ感動をイエスと共に送りたいと思いませんか。

 


2018年8月5日

 

「人一倍厳しい裁き」 マルコによる福音書12章38~40節

 

 

 

 「人一倍厳しい裁きを受ける」(40節)とは、聞きたくない、嬉しくない言葉です。

 

私にはそう思えるのですが、なかには胸を張って私には関係ない言葉だと言える方がおられるとも思いますが、ほんとうに自分はだいじょうぶと胸を張って言えるか、聖書の御言葉から考えてみましょう。

 

 イエスは、どんな人を指して人一倍厳しい裁きを受けると言われているのでしょうか。

 

 

 

イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや,広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にして、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

 

イエスによって、ここで名指しされているのは律法学者です。

 

イエスは彼らのどんなところが人一倍厳しい裁きを受けるところか述べています。

 

長い衣をまとって歩き回るところ(長い衣は権威の象徴でした。祭服を着て権威ある者であることを必要以上に見せようとしている)。広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望むところ(「先生、先生」とチヤホヤされるのを好んだ)。

 

やもめの家を食い物にするところ(弱い立場にある人たちを権力で食い物にしていた)。

 

見せかけの長い祈りをするところ(神に祈っているように見えて、実は人に聞かせるための祈りになっていた。立派な偉い宗教指導者とみられたい)。イエスは彼らのこれらの行為に気をつけなさい、と

 

言われたのです。

 

「ほめられたい」「認められたい」「よく思われたい」との欲望にしらずしらずの間に支配されてしまったのです。

 

 

 

三浦綾子さんの「新約聖書入門」に、次の文が載っています。

 

まだ34歳の幼い子が、池におぼれている友だちを見つけて、急いで親に知らせた。駆けつけた親によって、おぼれていた子は助けられ、一命をとりとめることができた。新聞はこれを取り上げ、助けた子供は大きな玩具などを買ってもらって喜んだ。その子は誰に会っても、「えらいえらい」とほめられた。

 

が、しばらく経つと、幼い子の生活はもとの平凡な生活にかえった。その子は再びほめられたくなった。

 

そしてある日、近所の小さな子を池に突き落とし、再び急を大人に告げた。しかしこの時、突き落とされた子供は、哀れにも死んでしまった。この事件を知った時、私は非常な恐ろしさを感じた。自分がほめられるためには、人を池に突き落としてもかまわない。そうした思いが、まだ西も東もわからない幼い時から、人間の胸の中に巣食っている、とそれば、われわれ大人の胸の中には「人にほめられたい」「人に認められたい」「人によく思われたい」という思いが、根を張り、幹が育ち、もはや、なんとしても、抜きがたいほどに成長しているのではないか。

 

 

 

イエスが「気をつけなさい」と言われたのは、律法学者だけのことではない、あなたがたのだれにでも起こりうることだということなのです。

 

ヤコブの手紙に「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。」(ヤコブの手紙31節)と忠告しています。多くの人が教師になってはなりません、と言っているヤコブ自身が教師なのです。自戒を込めて語っているのでしょう。

 


2018年7月29日

 

「ダビデの子」 マルコによる福音書12章35~37節

 

 

 

 ここに書かれているのは、メシア(キリスト)はダビデの子孫であるか、の論争です。

 

ダビデはユダヤ国の2代目の王です。メシア(キリスト)は王家の血筋を引く人物だということが

 

言われていたのです。「メシア(キリスト)はダビデの子だ」(35節)との、メシア(キリスト)待望がローマ帝国の属国になっていたユダヤでは強まり、ダビデ王朝の再興が待ち望まれていた時です。

 

 イエスこそ、メシア(キリスト)であると考える人たちが増えていました。

 

バルティマイという盲人はナザレのイエスがそばをお通りになると聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(マルコによる福音書1047節)と叫んでいます。

 

また、イエスがエルサレムに入場なさった折に、人々は、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マルコによる福音書11910節)と叫んで迎え入れています。それに対して、イエス自身は否定をなさっていません。

 

マタイによる福音書も「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイによる福音書11節)で始まっています。

 

 

 

ところが、そのイエス自らがダビデの子孫であることを否定するようなことを言われています。

 

「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』というのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」3537節)

 

「主は、わたしの主にお告げになった。・・・・」は詩編1101節のみ言葉です。

 

「主は、わたしの主に」の最初の「主」は父なる神のこと、その次の「主」はメシア(キリスト)のことです。「わたし」は、ダビデのことです。

 

「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」(ローマの信徒への手紙134節)

 

 

 

 イエスの律法学者への問は、自分はユダヤ人が待ち望んでいるイメージのメシア(キリスト)ではないことをはっきりさせたのです。ここには、イエスが、自分が政治利用されること(革命の指導者に祭り上げられること)を嫌ったと言うことです。イエスは革命家でも、教祖でもありません。

 

 イエスは。神であられたのに、人となられた方です。

 

 

 

 ペトロは五旬節(ペンテコステ)の日に行った説教でイエスが用いた詩編1101節より、イエスが主であり、メシア(キリスト)であり、あなたがたはその方を十字架に架けたが、この方は復活されたのだ、と語っています。(使徒言行録2章)

 

 

 


2018年7月22日

 

「掟の中の掟」 マルコによる福音書12章28~34節

 

 

 

 イエスに一人の律法学者が数ある掟(戒め)の中でどれが一番大事な掟でしょうかと尋ねたことへの返答です。

 

イエスの答えはこうでした。

 

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。

 

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

 

「第二の戒めは、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この2つにまさる掟はほかにない。」

 

2931節)と掟破りの答えをイエスはしています。

 

なぜ掟破りかと言えば、掟を一つあげて欲しいと願っているのに、2つ答えられているからです。

 

この2つの掟は切り離すことのできない関係なのです。そこには、前半は神について、後半は人についての戒めを記したモーセの十戒に通じるものがあります(出エジプト記20117節)。

 

 

 

第一の掟は、申命記645節の「イスラエルよ、聞け(シェマー イスラエル)」で始まる掟です。

 

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし」、すなわち全身全霊を尽くしてですが、一つ一つ書いているので。どれも大事です、と言うのが伝わって来るようです。

 

言葉だけ、心だけ、思いだけではだめなのです。行動も伴わなければならないのです。逆に、行動だけでもだめなのです。

 

 

 

第二の掟は、レビ記1918節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」からです。

 

ルカによる福音書はサマリア人が強盗に襲われてけがを負った人を助けた話と結びつけています(ルカによる福音書102537節)。

 

また、パウロはエフェソに宛てた手紙の中で、「夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。」(エフェソの信徒への手紙528節)と、一番身近にいる隣人の一人である妻を愛している人が自分自身を愛する人だと言っているのです。

 

 

 

 イエスの答に感動した律法学者は、「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」33節)と感想を述べています。

 

イエスの語った「あなたが祭壇に供え物を献げようとして、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタイによる福音書52324節)を思い出します。

 

 

 

 一方、イエスは律法学者が適切な答をしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。34節)とあります。

 

ここでイエスの言葉に注目したいのです。イエスは、「神の国から遠くない」と言われたのであり、「神国に入った」と言われていないと言うことです。

 

わたしたちに大切なのは「聖書知識」の単なる蓄積ではありません。信じ、実践することではないでしょうか。

 

 

 


2018年7月15日

 

「天使のようになる」 マルコによる福音書12章18~27節

 

 

 

 来月は8月、お盆の季節になります。

 

墓参りに実家に帰るという光景があちらこちらでみられる季節です。

 

日頃あまり考えない死後のことを考えさせられる時かも知れません。

 

 

 

 きょうの聖書箇所は、瀬戸内寂聴さんと玄侑宗久さんの対談の中で、宗久さんが聖書の中にこんな話がありますと紹介しています(彼らは二人とも作家であり、僧侶です)。

 

死後の世界に否定的なユダヤ教の中のサドカイ派の人々は復活(死後の世界)がないことを論理的に説明しようと行ったイエスへの質問です。

 

彼らはモーセの「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子どもを残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」(申命記2556節)の教えを持ちだして、7人の男と結婚した女が死後、どの兄弟の妻となるのかとイエスに迫ったのです。

 

 イエスは「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしている」24節)と答え、復活について彼らに教えています。

 

 

 

 3点お話します。

 

1)聖書のことは聖書に答えてもらう

 

サドカイ派の人々は、聖書(申命記2556節)を持ちだして、イエスに質問しています。

 

そこで、イエスも聖書を用いて答えています。

 

出エジプト記3章にあるモーセの書「柴」の箇所です。

 

聖書には聖書です。聖書の一面だけ(1か所だけ)を見て思い違いをするなと言うことです。

 

 

 

2)天使のようになる 

 

イエスは彼らの7人の男と結婚した女が死後だれの妻となるのか、という疑問に、「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」25節)と、私たちが行うような婚姻関係はないと答えています。

 

「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。はや死もなく、もはや悲しみも嘆きの労苦もない。」(ヨハネの黙示録214節)

 

 

 

3)生きている者の神

 

イエスはモーセの柴の箇所で、神が「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」

 

26節、出エジプト記36節、15節)と言われたのを取り上げ、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」27節)と言われています。人が神と共にいる時、人は生きているのだ、と語っておられるのです。肉体の死が死ではなく、神から離れていることが死だということではないでしょうか。わたしたちが肉体から離れていても、神と共にいるならば生きた者なのです。

 

イエスの語られたたとえ話の中にそのことは顕著に表されています。放蕩した息子が帰って来たとき、

 

父はこう言います。「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」

 

(ルカによる福音書151124節)と。

 


2018年7月8日

 

「祈りの家」 マルコによる福音書11章15~19節

 

 

 

 きょうの聖書箇所は、イエスがエルサレム神殿で大あばれされた話です。

 

神殿の境内で、売り買いしていた人々を押い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返し、境内を通って物を運ぶことも許さなかったと書かれてあります。

 

おとなしいイメージをイエスに持つ方がおられますが、そんなことはありません。

 

彼もあばれるときには、あばれるのです。

 

しかし、イエスは理由もなく気晴らしにあばれたのではありません。

 

なぜ神殿境内に両替人がいたのでしょうか。神殿でささげるのに用いられるのは古代ヘブライ貨幣であるツロの貨幣のみだったので、両替が必要だったのです。なぜ神殿境内に鳩を売る人がいたのでしょうか。神殿にささげる犠牲の鳩が必要だったからです。また、なぜ神殿境内を通る人たちがいたのでしょうか。神殿に搬入する物があったからであり、また神殿境内を通る方が近道だったからです。

 

私がいま述べた説明だけを聞くと、あばれるようなことなのかと思った方がいるのではないでしょうか。

 

一見何が問題なのかと問題視しないようなことに大きな問題が潜んでいることがあります。

 

きょうの箇所もその一つです。

 

神殿のほんらいの目的である神を礼拝することから逸脱してしまっていた場所に神殿がなっていたのです。

 

両替を商売に手数料をもらう、鳩を売ってもうけることが当たり前になってしまっていた。鳩は羊や山羊を捧げることのできない貧しい人がささげる物でした。貧しい人からも搾取していたということです。

 

両替してもらう側や鳩を買う側も、前もって準備する手間が省けて便利だったのでしょう。

 

このような行為が聖なる場所であるべき神殿を世俗化させてしまったのではないでしょうか。

 

 

 

イエスは、なぜ大あばれしたかを聖書の言葉を通して人々に教えました。

 

「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』

 

ところがあなたがたは、それを強盗の巣にしてしまった。」

 

これは、イザヤ書567節の引用です。

 

また、イエスが言われた「強盗の巣」は、エレミヤ書711節で使われている言葉です。イエスはこの句を意識して語られたのかも知れません。

 

そこにはこう書かれています。「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟に見えるのか。そのとおり、わたしにもそう見える。」

 

この聖書箇所の前節(710節)には、「わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。」とあります。

 

神殿で動物の犠牲のささげ物がささげられていても、献金がささげられていても、「強盗の巣」となってしまうことがあるのです。

 

 「神殿」をわたしたちに置き換えて言えば「教会」です。

 

 

 


2018年7月1日

「肩透かし」 マルコによる福音書12章13~17節

 

 一休さんのとんち話に、「このはしわたるべからず」というのがあります。

桔梗屋さんが橋に「このはしわたるべからず」と書いた立札を立てました。

しかし、一休さんはお構いなしに橋を渡ります。怒った桔梗屋さんに「『このはしわたるべからず』と書いてあるので、私は端ではなく、真ん中を渡りました」と得意のとんちで切りかえしました。

 

ファリサイ派やヘロデ党の数名がイエスのところへ来て、皇帝に税金(直接税)を納めるのは、律法(ユダヤの教え)に適っているのか、いないのかと、質問します。

当時のユダヤはローマ帝国の属州になっていて、税金をローマにも支払わなければなりませんでした。

皇帝に税金を納めるべきと答えると、国粋主義者たちを敵に回すことになります。と言って、

皇帝に税金を納める必要はないと答えると、ローマ帝国を敵に回すことをことになります。

この質問はイエスの言葉じりを捕えて、陥れるのが目的ですから、イエスがどちらを答えても、イエスに不利になる質問でした。

 

イエスはこの時、一休さんのようにとんちで答えるのです。

イエスは「(直接税を納めるのに用いられていた)デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」と命じ、

差し出されたデナリオン銀貨を見て「これは、だれの肖像と銘か」と聞きました(15節、16節)。

デナリオン銀貨には、カエサル(皇帝)・ティベリウスを神格化する銘と像が刻んでありました。

それで、彼らは「皇帝のものです」と答えたのです。イエスはすかさず、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言います。すると彼らは答えに驚嘆し、それ以上何も言えませんでした。

 イエスの答えは、適っているのか、いないのか、わかったようで、わからない答です。

しかし、一休さんの「橋」と「端」のような単なる言葉遊びではありません。

 

 デナリオン銀貨には皇帝を神とする肖像と銘が刻まれていましたが、神のものに刻まれている肖像と銘とは何でしょうか。

聖書には、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」(創世記127節)、

「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え」(イザヤ書434節)と書かれています。

これが、人間一人一人に刻まれている肖像と銘ではないでしょうか。

彼らは皇帝に税金を納めることが律法に適っているかどうか、イエスに尋ねたが、同様に、イエスは(神の肖像と銘が刻まれている)人間は神に返すものはないのかと問うているのではないでしょうか。

だから、「納めなさい」ではなく、「返しなさい」と言われたのです。

 

律法に適って(従って)人間が神に返すべきものは何でしょうか。

きょうの箇所の前の(617日の礼拝で語った)マルコによる福音書12112節の「ぶどう園の主人と農夫たちのたとえ」で説教したことがその答えの一つです。

 

 


2018年6月17日

 

「ご自身のこと」 マルコによる福音書12章1~12節

 

 

 

 イエスは。たとえで彼らに話し始められた。1節)

 

イエスは度々たとえで神の国のことを話されています(42節)。

 

イエスは身近にあることをたとえに使っています。たとえに出てくる話や言葉(単語)がすべて神の国の秘儀とぴたりと当てはまるのではありません。

 

 

 

きょうの聖書箇所のたとえ話は、ぶどう園の主人が収穫の時期になったので、収穫物を受け取りに僕たちを農夫のところへ送ったと言う話です。

 

イエスのたとえのように、当時の大地主の多くは大都会ないし、外国に住んでいたので、農場の整備を済ませたら、あとは使用人たちに任せて、帰っていったようです。

 

 

 

 ぶどう園の主人は、ぶどう農園に必要な一切を準備しています(1節)。

 

 主人は、ぶどう農園を農夫たちに与えたのではありません。貸したのです(1節)。

 

 主人が収穫物を受け取るのは当たり前のことで、不当なことではありません(2節)。

 

ところが、農夫たちは遣わした僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した(3節)のです。

 

そこでまた、主人は再び別の僕を送ったのですが、農夫たちはその頭を殴り、はずかしめたのです(4節)。(主人は懲りていないのです。)主人はさらに、もう一人別の僕を送ったのですが、殺されてしまいます。主人はさらに、多くの僕たちを送ったのですが、ある者は殴られ、ある者は殺されてしまいます(5節)。(この主人は懲りていないのです。どこまでお人好しなのでしょうか。)

 

主人は愛する息子ならば敬ってくれるだろうと考えて、息子を農夫たちのところへ送ったのです(6節)。

 

農夫たちは主人の息子を敬うどころか、跡取りの息子を殺してしまえば、相続財産はすべて自分たちのものになると画策し、息子を殺し、息子の遺体をぶどう園の外に投げ捨てたのです(8節)。

 

何とむごい結末のたとえ話でしょうか。

 

 

 

 このたとえ話を聞いていた彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた17節)のです。

 

 自分たちへのあてつけだと考えた彼らはイエスを捕えようとしますが、群衆を恐れてその場は何もしませんでした(12節)。しかし、このたとえ話の結末はほんとになってしまいます。

 

 

 

 ぶどう園の主人は、創造主なる神です。ぶどう園はユダヤの地であり、全世界です(イザヤ書57節)。農夫たちは、ユダヤ人であり、すべての人間です。

 

僕たちは、神から遣わされた預言者たちです。愛する一人息子は、イエスご自身です。

 

 

 

収穫物は、神に感謝し、神を賛美し、神を礼拝することを何よりの喜びとし、隣人を自分のように愛し、被造物世界を正しく治めることではないでしょうか。ところが、農夫たちのように、「神を知りながらも、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣やはうものなどに似せた像と取り替えたのです。」(ローマの信徒への手紙12123節)

 


2018年6月10日

「権威者に対して」 マルコによる福音書11章27~33節

 

 権威の問題がこの箇所ででてきます。そもそも権威とは何でしょうか。

きょうの箇所で出てくる「権威」はギリシア語の「エスーシアー」です。この単語は他に「権利」「資格」「権力」「職権」「力」「支配」などと訳されます。

私たちの生活の中にいろんな「権威」―親の権威、上司の権威、先生の権威、政治家の権威などーが存在します。その「権威」を用いたり、用いられたりしています。その「権威」が良く働けば秩序を守らせることにもなりますが、「権威」が悪く働けばパワハラ(パワーハラスメント)のように人に傷を負わせることになります。

 

 イエスのところへ、祭司長、律法学者、長老たちがやってきます。

彼らはサンヘドリン(ユダヤの最高法院)を構成するメンバーたちですから、サンヘドリンから送られてきた者たちだったと思われます。

彼らはイエスに「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが。そうする権威を与えたのか」

28節)と質問しています。

このようなこととは、神の国のことを教えている(宣教)、そしてエルサレム神殿から商売人を追い出した(1516節)などのことでしょう。彼らはイエスのこの行動を見過ごしにすることができなかったのでしょう。

 

 イエスは彼らの質問に答えるための条件を出しました。

 洗礼者ヨハネはバプテスマ(洗礼)を授けていたが、その権威はどこから与えられていたものかを答えよ、というものでした。

彼らは、天(神)からと言えば、どうしてヨハネを信じなかったかと言われるだろう、

人(後ろ盾なし)からと言えば、ヨハネを預言者だと信じている群衆が黙っていないだろう、と

考え、へたに答えない方が賢明だと「分からない」33節)と答えます。

するとイエスは「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」33節)と答えることを拒否しています。

 

 彼らはサンヘドリンという権威をもっていたはずです。しかし、その権威は保身のための権威だということを露呈させたのです。

 聖書が語る権威とは、何でしょうか。

「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(ローマの信徒への手紙131節)

 

 「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。」(ヨハネによる福音書1911節)

 

 「キリストはすべての支配や権威の頭です」(コロサイの信徒への手紙210節)

 神のみ心に反することは、正しく権威の行使をしたとは言えないのです。

神から任されて権威を用いていることを認めることができないならば、その権威はもともと存在しない

 


2018年6月3日

 

「いちじくの木」 マルコによる福音書11章12~14節、20~25

 

 

 

 エルサレムに子ろばで入られたイエスは、夕方になったので、12弟子を連れてベタニアへ出て行かれます。(1111節)

 

 その翌日のことです。イエスが空腹を覚えられていたところ、いちじくの木が目に入りました。

 

木は葉で覆われていて、実が成っているかどうか遠くからではわかりません。イエスは近寄ってみました。実の成る季節ではなかったこともあり、実はついていませんでした。

 

 季節前に小さく突き出たもの「初なり」のいちじくが葉とともに熟し、非常に珍味とされていたと言われています。その初なりの実を期待されていたのかもしれません。

 

 

 

イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。

 

弟子たちはこれを聞いていた。14節)

 

 

 

さらにその翌朝のことです。再びいちじくの木のそばを通りかかると、いちじくの木は根元から枯れていました。昨日のことを覚えていたペトロは「先生、ご覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」21節)と言いました。

 

ペトロはイエスが木を呪われたことに驚いているのではなく、イエスの言葉どおりになったことに驚いたのです。イエスはペトロに答えます。

 

いちじくの木はぶどうの木と同様にイスラエルの象徴とされていました。(参照:ホセア書910節)  神殿が商売の場所になっていることを嘆かれる記事(次週の箇所)がいちじくの木の話に挟まれるかたちで書かれています。神殿がいちじくの木のように呪われるべきものになっていることを暗示しているのではないでしょうか。

 

 

 

祈りについての教え

 

1)神を信じなさい。

 

「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」2223節)

 

「立ち上がって、海に飛び込め」は当時のラビが用いていた表現で、比ゆ的なものです。

 

「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」1027節)

 

神にはできるのと、そうしてくださるのとは違います。神が最善をしてくださることを信じることです。

 

「あなたはなる方、すべてをとする方。」(詩編11968節)

 

私たちは時として神ではなく、不信仰な自分.を信じています。

 

 

 

2)祈りと赦し

 

「立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。」25節)

 

イエスの教えた祈り(主の祈り)に通じるものがこのイエスの言葉にはあります。

 

「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタイによる福音書612節)

 

イエスの教える祈りは願い事だけでない、和解の祈りがそこにはあります。

 

 

 


2018年5月27日

 

2018年5月27日 主日礼拝説教要旨

 

「王の王、主の主」 マルコによる福音書11章7~11節

 

 

 

きょうの聖書箇所は先々週のマルコによる福音書1116節の続きです。

 

イエスがエルサレムに入るときのことです。イエスは弟子たちに子ろばを借りてくるように命じたところが116節です。イエスは.借りて来た子ろばに乗ってエルサレムに入られたのがきょうの聖書箇所です。

 

 

 

二人は子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(7節)イエスは王や貴族のように権威ある者としてエルサレムに入場なさっています。

 

 

 

多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。

 

8節) 多くの人たちが自分たちの着ていた上着を脱いで道に敷いたのです。

 

ヨハネによる福音書は、道に敷いた枝は「なつめやしの枝」(1213節)だったと記述しています。

 

 

 

そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(910節)

 

 

 

ホサナは、もともとヘブライ語、アラム語で「お救いください」を意味しますが、やがて賛美の叫びの声となったのです。多くの者たちが歓声をあげて、イエスを迎えたのです。

 

「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。」(詩編1182526節)「ハレルヤ。天において 主を賛美せよ。高い天で 主を賛美せよ。」(詩編1481節)を彷彿とさせます。

 

 

 

そのような歓呼の声でイエスを迎えた人々が、その後「イエスを十字架につけろ」(1514節)と呪うのでした。同じ舌から祝福と呪いの言葉を出すのが私たちです。

 

「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。」(ヤコブの手紙3910節)

 

 

 

こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、12弟子を連れてベタニアへ出て行かれた。(11節)

 

ほんらいいるべき神殿(参照:ルカによる福音書2章4149節)にいることができずに、イエスはベタニアに出て行かれたのです。

 

イエスをののしり十字架に架けた者たちは、のちにイエスが子ろばに乗って来られた意味を、

 

そして、イエスを「ホサナ」と歓声をあげて迎え入れたことが正しかったことを知ることになります。

 

この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。(ヨハネの黙示録1916節)

 

 

 


2018年5月20日 ペンテコステ(聖霊降臨祭)

 

「約束された聖霊」 ルカによる福音書243649

 

 

 

 今日の礼拝はペンテコステ(聖霊降臨祭)礼拝です。

 

キリスト教暦には3大祝祭日があります。それは、降誕祭(クリスマス)、復活祭(イースター)、聖霊降臨祭(ペンテコステ)です。

 

キリスト教界が聖霊降臨祭(ペンテコステ)を祝祭日とした理由が使徒言行録2章に記されています。

 

ユダヤの祭りの一つ、五旬祭の祭りの日のことです。

 

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録214節)五旬祭はユダヤ教の収穫祭の呼び名で、ギリシア語は「ペンテコステ」です。この日、クリスチャンたちはある家に集まって礼拝を献げていました。

 

その時、聖書に書かれているように不思議な現象が起こり、聖霊に満たされた人たちが、異なる言葉で語りだしたのです。

 

 クリスチャンたちがある家に集まり礼拝し、祈っていたのには理由があります。

 

それがきょうの箇所に書かれてあることです。

 

「使徒言行録」と「ルカによる福音書」を書いたのは同じルカという人物です(使徒言行録11節)。

 

復活されたイエスに出会ったという弟子たちが出始めました。それが話題となり語り合っているところへ、十字架より復活されたイエスが、現れたのです。弟子たちははじめ信じることができなくて、イエスを幽霊だと思ったようです。イエスは幽霊ではない証拠に、彼らに手足を見せられ、焼き魚を一切れ食べて見せます。

 

そして、イエスはご自身に起こった十字架と復活は「モーセの律法と預言者の書と詩編(私たちが一般に言う旧約聖書のことです)」の成就だということを説き、天に昇られました。

 

その時、弟子たちにこのような言葉を残しています。

 

「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と、エルサレムから初めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」4648節)

 

そのためにイエスは、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」49節)と言われ、弟子はそれを待ち続け、五旬祭の日に、それが現実となったのです。そこで起こった現象は約束された聖霊がクリスチャンに降ったことの証し(証拠)です。聖霊の力の目的は宣教のためです(参照:使徒言行録18節)。

 

このできごとを怪しんだ群衆にペテロは事の説明を含めた説教します。その説教を聞いた人の中に

 

イエスを信じたいと思う人.たちがでました。ペトロはこの人たちに、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を許していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、

 

つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれでも、与えられているものなのです。」

 

(使徒言行録23839節)と語っています。

 

実はその背後で働かれていたのが聖霊です。聖霊はクリスチャンの生活を守り、証をするのを助ける

 

お方、弁護者(別訳「援護者」、「助け手」)とも呼ばれているお方です(ヨハネによる福音書1416節、26節)。

 


2018年5月13日

 

「なぜ、そんなことをするのか」 マルコによる福音書11章1~6節

 

 

 

 「なぜ、そんなことをするのか」3節)

 

 すべての行動には理由があります。

 

 イエスの一行がエルサレムの町に入られる前に、イエスは二人の弟子に向こうの村に行って、まだだれも乗ったことのない子ろばが繋がれているので、それをほどいて連れて来るようにと命じました。

 

その時、もし、誰かが、「なぜ、そんなことをするのか」と言ったら、「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と言いなさい、3節)と言葉を加えています。

 

 

 

 二人の弟子が命じられた通り村に行くと、繋がれていた子ろばを見つけ、それをほどくと、そこに居合わせた人に「その子ろばをほどいてどうするのか」と言われてしまいます。しかし、その人に弟子たちがイエスの言われた通り話すと、許してくれました。

 

 (再来週お話しするところですが)イエスはその子ろばに乗って、エルサレムの町に入って.行かれました(7節)。

 

「なぜ、そんなことをするのか」との質問に、弟子たちは「主がお入り用なのです」と答えていますが、

 

イエスがなぜ子ろばが必要なのか、は居合わせた人もイエスの弟子も理解してはいませんでした。

 

 

 

1) イエスが子ろばにこだわったわけ

 

旧約聖書ゼカリヤ書9910節のみ言葉はメシア預言です。ゼカリヤはイエスの誕生する五百数十年前に活躍した預言者です。 

 

そこにはこう預言の言葉が記されています。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶるころなく(新改訳聖書では「柔和」と訳している)、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和を告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」と。

 

ここには、メシアが平和の王として来られることが書かれています。

 

雌ろばとあるのは、ろばが雑種ではなく、純粋種であるということです。

 

メシアがダビデの家系から生まれると考えられていたことを暗示しています。

 

イエスはゼカリヤのメシア預言を意識して、エルサレムに入るのに、子ろばを選ばれたのです。

 

 

 

2)弟子たち

 

 ユダヤを属国としていたローマ帝国よりユダヤの民を解放してくれるメシアとイエスに多くの者たちが期待をしていました。彼らは、イエスがなぜ子ろばでエルサレムに入られたのかその時は理解できなったのです。イエスが十字架に架けられ、殺され、3日目に復活されたことによって、生前のイエスの

 

ことを思いだしながら、ゼカリヤのメシア預言がイエスを指していることを理解したのです。

 

 

 

3 ) 後に理解すること

 

イエス(神)のなさることを「なぜ、そんなことをするのか」とその時には理解できないことがあるかもしれません。しかし、後に「そういうことだったのか」と理解できる時がきます。

 

弟子や居合わせた者のように、理解できなくても従うことが大事な時もあります。

 


2018年5月6日

 

「安心しなさい。立ちなさい。」 マルコによる福音書10章46~52節

 

 

 

 きょうの聖書箇所は、イエスと弟子たち一行がエルサレムに向かう途中に立ち寄ったエリコの町で起こったことです。彼らがエリコの町を出ていこうとされた時、ティマイの子で、バルティマイという盲人は道端に座って物乞いをしていました。彼はナザレのイエスが近くに来られていると聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めます。

 

 

 

 1)人々の反応

 

多くの人々が叱りつけて黙らせようとした。48節)

 

イエスに触れていただけために、人々が子どもを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った1013節)と言うことが過去にありました。その時、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちをわたしのところに来させない。妨げてはならない。神に国はこのような者たちのものである。」1014節)と。その後金持の男が走り寄ってきましたが、弟子たちはこの男を叱ってはいません(101722)。子ども、盲人は叱られています。弟子たちは相手によって使い分けていたのです(参考:ヤコブの手紙2章)。僕、仕える者とは程遠い姿です。悲しいかな、イエスの教えは生きていなかったのです。

 

 わたしたちは自ら顧みてどうでしょうか。

 

 

 

 2)イエスの反応

 

 イエスに呼ばれた盲人が、イエスのところへ行くと、イエスは「何をしてほしいのか」と言われた51節)のです。彼の返答は、「先生、目が見えるようになりたいのです」51節)でした。

 

少し前に、イエスの弟子のゼベダイの子ヤコブとヨハネが、イエスにお願いごとをしています。

 

イエスは彼らに「何をしてほしいのか」(36節)と同じ質問をしています。彼らの返答は、偉くなりたちということでした(37節)。何という違いでしょうか。盲人は当たり前の願いで贅沢な願いではありません。その願いを人々はかき消そうとしていたのです。人々は盲人の願いを奪い取り、イエスは盲人の願いをかなえます。

 

 

 

 3)盲人の信仰

 

イエスは盲人に「あなたの信仰があなたを救った。」52節)と言います。この「救った」は「癒す」とも訳すことができる単語です。彼の信仰が彼を癒したのです。

 

彼はイエスに「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」48節)と言っています。

 

彼はイエスが王の王、主の主であることを言い当てているのです。

 

目の見えない彼は肉眼ではイエスを見ることはできませんでしたが、信仰の目で真実を見たのです。

 

 

 

 4)めげずに

 

人々は彼を黙らせようとしたが、彼はめげずに、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた48節)のです。

 

 黙らせようとする声(かき消そうとする、邪魔する声、疎んじる声)にめげなかったのです。

 

 

 

「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」49節)

 

 

 


2018年4月29日

 

「あなたの願い イエスの願い」 マルコによる福音書10章35~45節

 

 

 

 きょうの箇所は、イエスにヤコブとヨハネの兄弟が、イエスが天下をとられた時、自分たちを重い地位に取り立ててくださいと、願い出る話です(3537節)。

 

  

 

1)人の願い

 

 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」37節)

 

 イエスがご自身に起こる苦難を話された直後(3234節)に、願うようなことではないように思います。イエスの言葉を聞いているようで、聞いていなかったのではないでしょうか(言葉を変えて言えば、理解しようとしなかった)。彼らの心に出世欲があり、自分たちの都合の良い聞き方をしていたのです。

 

それはこの兄弟だけの問題ではありませんでした。

 

ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた41節)とありますから、

 

出し抜かれた悔しさがあったと思われます。

 

 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」42節)

 

イエスが一般論で言われた支配者、権力者の姿は、弟子たちも欲していた姿ではなかったでしょうか。

 

人を踏み台にして出世する。人を出し抜いてでも出世する。パワハラ、セクハラに結びつく世界です。

 

 「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。」38節)

 

 

 

2)イエスの願い

 

「あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。43節)

 

 イエスは一般論からかけ離れた、真逆の姿を弟子たちに求められています。

 

下になるのも、仕えるのも、自ら望む人はほとんどいないのではないでしょうか。

 

イエスはそれを願っておられます。

 

 

 

3)イエスのように

 

 「人の子は仕えるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」45節)とイエスはご自身がこの地上に来られた理由を語られています。

 

フィリピの信徒への手紙には、何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけではく、他人のことにも注意を払いなさい。

 

たがいにこのことに心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。238節)とあります。

 

 

 


2018年4月22日

 

「イエスの覚悟」 マルコによる福音書10章32~34

 

 

 

きょうの礼拝から、説教は再びマルコによる福音書に戻ります。

 

 

 

一行はエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。32節)

 

エルサレムはユダヤの主要都市で、ユダヤ教の神殿があったところです。

 

ユダヤの指導者たち、ローマの総督のいるところです。敵陣の真っただ中に乗り込んで行くようなものです。そこに、イエスは弟子たちを伴い、乗り込んでいくのです。それも、先頭に立ってです。

 

 

 

それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。32節)

 

エルサレムに入られる前に、イエスは弟子たちにあることを話しておられたこと(83132節、93132節)が関係しています。

 

そして再び、イエスは弟子たちにそのことを話します。

 

イエスは再び12人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」3234節)

 

 

 

弟子たちは、イエスにバプテスマを授けたヨハネがヘロデ王の罪を指摘したことで、牢獄に入れられ、首をはねられて殺害されたこと(61429節)を思い出したかも知れません

 

 

 

弟子たちは先頭を歩かれるイエスになみなみならぬ覚悟を見たので、驚き、恐れたのではないでしょうか。

 

イエスの覚悟はだれのため、何のための覚悟だったのでしょうか。

 

 

 

十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。 (ペトロの手紙一 2 24節)

 

 

 

イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

 

(ローマの信徒への手紙 425節)

 

中野に日本キリスト教団更生(こうせい)教会があります。教会の名前は「甦り」の「甦」の漢字を二つに分けてつけられた名だそうです。「更生」の意味は、もとの良い状態にもどること。役に立たなかったものに手を加えて利用すること。生きかえること。キリストが甦ってくださることは、私たちの甦りでもあるのです。

 

神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。(コリントの信徒への手紙一614節)

 

 

 

イエスの十字架の死も、死からの甦りも、私たちのためだったのです。

 

イエスの覚悟は私たちを救うための覚悟でした。あなたはイエスのために何を覚悟しますか。

 


2018年4月15日

 

「み言葉を行う人になりなさい」 ヤコブの手紙 122

 

 

 

 きょうの聖書箇所は、今年度(2018年度)の年間聖句として挙げた箇所です。

 

きょうの午後の教会総会で決定される予定です。

 

 

 

「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」

 

 

 

①聞くだけで終わる。

 

「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」に続き、聖書はこう書いています。

 

「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」2324節)

 

鏡に映る自分の姿にたとえています。私たちのほとんどは自分の顔かたち、体型さえ覚えていない者です。自分を欺いて、(自らを偽り)、良いように思いたがるのです。

 

御言葉も同じだと言うのです。自らの行いに照らし合わせながら聖書を読んでいる時は、御言葉を行っていないことに気付くのですが、御言葉を行うことを忘れ、それどころか、自分は行っていると思い込んでいるのだと言うのです。

 

 

 

②何を行う人になるのか。

 

「御言葉を行う人になりなさい。」 

 

御言葉を行う人とは具体的に何を行う人だと言っているのでしょうか。

 

たとえば「人に親切にしなさい」です。親切一つあげてもいろんな親切の仕方があります。 

 

御言葉を行うと言ってもいろんな行い方があります。ヤコブの手紙では実際にどのようなことが行われていないと、指摘されているのか。御言葉の何を行えと言われているのか。それを見ていかなければと思います。

 

 

 

ヤコブの手紙を通して神が語る「御言葉を行う」とは何かを見て行きましょう。

 

「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、それこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」(127節)と行う内容が述べられています。

 

また、身なりなどの外見で人を判断し、人によって態度を変えることに対し「人を分け隔てしてはなりません。」21節)、と行いの内容が述べられています(21~4節)。 

 

さらに、生活に困っている人に、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい。」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう」216節)とたとえ話にはなっていますが、行いの内容が述べられています(21417節)。

 

「なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。」417節、新改訳)とも述べています。

 

 

 

 私たちはこの年間聖句を教会共同体として受け止めていきたいと思います。

 

年間スローガンは「あなたの右手をイエスに、左手を隣人と」に揚げました。右手でイエスにつながり御言葉を聞き続け、左手で隣人に行う、そのようなイメージです。

 


2018年4月8日

 

「み言葉を宣べ伝えなさい」 テモテへの手紙二 4章2節

 

 

 

 次週15日は当教会の教会総会日です。

 

2018年度は伝道の中の「み言葉」に重きを置いての計画案を立てています。

 

 そこで、今週と来週の2週の礼拝説教で「み言葉」について聖書より考えます。

 

 

 

次週の説教の聖書箇所は、「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(ヤコブの手紙122節)です。これは、2018年度の年間聖句に揚げているものです。

 

 

 

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」

 

 

 

「折が良くても悪くても」 

 

新改訳2017は、「時が良くても悪くても」と訳しています。

 

パウロはテモテに、神の言葉を、時が良い時だけでなく、時が悪い時も、宣べ伝えなさい、と書いています。

 

続けて「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、」好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(3~4節)と書いています。

 

  神の言葉とは、聖書の言葉だけではなく、説教、証しを含めてのことですが、神の言葉を受け入れてくれない兆候がすでに出始めていたのでしょう。

 

「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」(1章7節)で励ましているということは、そのような状況の中で、テモテが神の言葉を語ることにおくびょうになっていたことを物語っています。                                                  

 

 

 

 

 

この励ましのパウロの言葉には、自らの経験に裏打ちされた神の言葉への信頼があります。

 

パウロはフィリピに宛てて書いた手紙で「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」(フィリピの信徒への手紙2章1314節)、「命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」(〃 2章16節)と語っています。

 

 

 

神の言葉は命の言葉です。死んだ言葉ではありません。神の言葉の背後でお働きくださる神がおられることを信じていきましょう。

 

 

 


2018年4月1日 イースター

 

「婦人よ、なぜ泣いているのか」 ヨハネによる福音書20章11~18節

 

 

 

 きょうの礼拝はイースター(復活祭)礼拝です。

 

イエスの十字架の死よりの復活の話は四つの福音書に強調点の違いはあっても書き記されています。

 

きょうは、ヨハネによる福音書よりみていきます。

 

 

 

「主の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」201節)とあります。

 

ユダヤ教の安息日が終わるのを待って、マグダラ出身のマリアは、急いでイエスの葬られている墓に遺体に香油を塗るためにでかけています。

 

マリアは、イエスの遺体を納めている洞窟の墓に行って驚いたのです。

 

それは、洞窟の入り口をふさいでいる石がとりのけてあること(20章1節)、あるはずのイエスの遺体が無くなっていることでした。

 

 

 

それで、マリアは墓の外に立って泣いていた11節)のです。

 

まず、マグダラのマリアとイエスの出会いをお話しましょう。

 

悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア(ルカによる福音書82節)として登場しています。イエスからいやされて後、イエスとイエスの弟子たちと行動を共にしています。

 

ガリラヤからエルサレムに行く時も、イエスが十字架に架けられた時も、イエスの葬られている墓までも、常にイエスのそばにいた女性のなかの一人です。

 

マリアの流した涙は、最愛の師を失った悲しみの涙、遺体がどこにあるのかわからない途方の涙、遺体にさえさわることができない涙だったでしょう。

 

マリアにとってイエスは心の支えでした。希望でした。それを失った絶望の涙でした。

 

 

 

東日本大震災の行方不明が未だ数千人おられます。遺体が発見されない涙。遺体、遺骨を抱きしめたいという思いが叶わない涙がそこにはあります。マリア同様、辛い涙です。

 

 

 

そのマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と声をかけた人物がいます。天使たちと復活されたイエスです。天使たちとのやりとりの後、マリアが後ろを振り返るとイエスが立っておられたのです。

 

しかし、マリアは最初イエスだと気づかずに墓の管理をする墓守だと思ったのです。

 

イエスは「婦人よ、なぜ泣いているのか、だれを捜しているのか。」15節)と言われています。

 

それは叱責の言葉ではありません。慰めの言葉です。イエスの「泣くことはない」という声かけです。

 

「私は死んだままではない、生きている」という言葉です。

 

復活の主イエスに出会った瞬間です。それは絶望が希望に変わった瞬間でした。

 

 

 

きょうのところで注目しておく言葉が2点あります。

 

「婦人よ、なぜ泣いているのか」13節、15節)と「(後ろを)振り向くと」14節、16節)です。

 

イエスはおられなかったのではありません。背後にちゃんとおられたのです。マリアが気づかなかっただけなのです。

 

イースターの出来事は、絶望から希望を生み出す出来事ではなかったでしょうか。

 


2018年3月25日  棕櫚の主日礼拝

 

「渇く」 ヨハネによる福音書19章28~37節

 

 

 

 きょうはキリスト教暦では、棕櫚の主日、今週は受難週です。

 

次週はいよいよイースター(復活祭)礼拝です。

 

 

 

 イエスは十字架に架けられている間、7つの言葉を残しています。

 

父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。ルカによる福音書2334

 

はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。 ルカによる福音書2343

 

婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です。

 

ヨハネによる福音書1926-27

 

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。

 

マタイによる福音書2746節 マルコによる福音書1534

 

渇く。 ヨハネによる福音書1928

 

成し遂げられた。  ヨハネによる福音書1930

 

父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。 ルカによる福音書2346

 

この7つのことばを使ったものとして有名なのは、ヨーゼフ・ハイドン作曲のオラトリオ「十字架上のイエスの最後の七つのことば」です。

 

 

 

きょうの聖書の箇所には、7つのうちの2つが記されています。 

 

その一つが、この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。28節)です。

 

この「渇く」の言葉はヨハネによる福音書に特徴的に記されているイエスの言葉です。

 

「渇き」には、肉体的な渇きと、心の渇きがあります。

 

ヨハネの福音書には、この「渇く」が数回でてきます。

 

イエスは、人目を避けて井戸の水を汲みに来た女に、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書41314節)と言われました。

 

 

 

イエスの「渇く」は聖書の言葉の成就です。

 

口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。  詩編2216

 

人はわたしに苦いものを食べさせようとし 渇くわたしに酢を飲ませようとします。詩編6922

 

イエスの十字架の「渇き」が人々の「渇き」を癒すのです。

 

 

 

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。 ヨハネ635

 

 

 

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 ヨハネ737

 

 

 


2018年3月18日

 

「十字架の罪状書き」ヨハネによる福音書19章16~25節

 

 

 

 今年のイースターは4月1日です。イースターとは、イエスの十字架の死からの復活を記念するキリスト教最古の祝日です。

 

イースターの日はクリスマスのように固定されていません。最初、教会によってまちまちだった日を、325年のニカイア会議で、春分の日の後の満月に続く日曜日、満月が日曜日ならば、その次の日曜日とすると決められました。

 

教会はイースターまでの40日ほどをレントとして守っています。

 

日本語では「受難節」と呼んでいます。その方がピンとくると思います。イエスのエルサレムに入場なさってから、犯罪人のように捕えられ、裁かれ、十字架刑による死刑などの一連の苦難を覚える日になっています。

 

 今週と来週の礼拝ではイエスのご受難を取り扱っている聖書の箇所から共に学びます。

 

 当時ユダヤはローマ皇帝直轄属州でした。皇帝から派遣されていたのが総督ポンティオ・ピラトです。

 

彼がイエスを裁いています。彼はイエスに何一つ罪がないことが判明しましたが、ユダヤ人の暴動を恐れて、しぶしぶイエスに死刑判決を出しています。

 

ユダヤの指導者たちに押し切られるような形で判決を出したピラトが一つの抵抗を示しています。

 

それがイエスの罪状書きです。

 

イエスの十字架の上の罪状書き(告知板)に「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かせています。

 

19節)

 

1)罪状書き

 

 私たちにもし罪状書きが書かれるとしたらどんな罪状書きになるでしょうか。

 

私たちの罪状書きは神によって書かれます。

 

「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ人への手紙927節)

 

あなたは大丈夫ですか? 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」(ガラテヤの信徒への手紙64節)

 

 

 

「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(コリントの信徒への手紙二 510節)

 

 

 

2)イエスの罪状書きがわたしたちの罪状書きの上書きとなる

 

「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたち対する愛を示されました。」(ローマの信徒への手紙58節)

 

「一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」(ローマの.信徒への手紙518節)

 

「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた。』という言葉は真実である」(テモテへの手紙一 115節)

 

「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。」(エフェソの信徒への手紙17節)

 


2018年3月11日

 

「福音に生きる者」 マルコによる福音書10章28~31節

 

 

 

 私たちは、イエスが一人の金持男がした質問に対する答えを通して3回学んでいます。

 

きょうはその3回目です。

 

 

 

1)人間のほんらいあるべき姿 

 

 男はイエスに「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(17節)と問うています。

 

言葉を変えて言えば、人間ほんらいの生き方、神が人間に与えた人生とも言うべきもので、それを得る生き方を問うているのです。

 

 

 

2)イエスに従う人生

 

イエスは、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21節)と答えています。

 

自分の人生の精神的、物質的支えを神に置き、神と共に歩む人生です。

 

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイによる福音書6章24節)

 

 

 

3)キリストの体としての教会

 

「わたしに従いなさい」(21節)と招かれたイエスは、「わたしのためまた福音のために」(29節)

 

と言われています。私たちが呼び集められている理由は、イエスのため、福音のためです。

 

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリントの信徒への手紙一

 

12章27節)

 

私たちは、このように問を発します。私たち(の教会)に何ができるだろうか。しかし、現実の難しさにしりごみします。しかし、イエスは「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)と言われています。

 

また、「私たち(の教会)は何をしたいか」と問います。そして、自分たちがしたいことを主の御旨と思い込むことがあります。しかし、イエスは、「わたしのためまた福音のため」(29節)とするべきことを教えています。

 

イエスがこの地上で出会った方々になされたことを、教会はキリストの体として同じように行うために呼び集められた群れです。

 

私たちは、マルコによる福音書を礼拝で読み続けています。そこには、イエスが出会われた方々、なされたことが書かれていました。人生に価値が見いだせない人、離婚問題で悩んでいる人、子どもを育てるのに苦労している人、病気で苦しんでいる人とその家族。病気も様々です。弱い立場にある人たち、

 

しいたげられている人たち。

 

教会はその人たちに出会い、関わりを持つことがイエスに求められているのです。

 

 

 

4)私たちにも

 

「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(31節)

 


2018年2月25日

 

「執着心」 マルコによる福音書10章23~27節

 

 

 

 私たちは、イエスが一人の金持男がしたまじめな質問に対する答えを通して前回(1017~22節)、今回、そして再来週(28~31節)と3回学びます。

 

 

 

 イエスが彼に欠けている唯一のものに気付かせるために「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21節)と言

 

われた時の彼の反応を、聖書は「その人はこの言葉に気を落し、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」(22節)と記しています。

 

 

 

 そして、今回の聖書箇所に続きます。イエスは弟子たちを見回して「財産のある者が神の国(同じ意味として永遠の命、天国)に入るのは、なんと難しいことか。」(23節)と言われています。

 

私たちは普通、財産があることは生活する上で経済的な苦労をする必要がないから、幸せだと考えます。

 

しかし、そうとも言えないと言われているのです。イエスは、救いの邪魔になると言われたのです。

 

ほんとの幸せに出会う妨げになることがあるのだと言うことです。

 

 

 

 弟子たちはイエスの言葉に驚いています。しかし、イエスは「子たちよ、神の国に入るよりもらくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(25節)という比喩を用いて不可能であると語り、さらに驚かせています。

 

 弟子たちの心には、財産がある、神の祝福、救われ人との一つの流れがあったのではないでしょうか。

 

弟子たちは互いに「それでは、だれが救われるのだろうか。」(26節)と戸惑ったことが記されています。

 

 「困った時の神頼み」という言葉があります。この言葉は、困っていない時は、神を必要としない。求めもしない。考えもしない。と言うことです。

 

私たちが何の問題もなく生活している時、「神の国に入るのが難しい」時なのです。

 

私たちが問題を持つのは、悩みを持つのは、悪い面だけではないのです。

 

神に出会うチャンスでもあるのです。

 

私たちはこの時、自分たちを救うのは自分の財産でも、善行でもないことに気付くのです。

 

 

 

「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)

 

コリントの信徒への手紙一118~31節には、参考になることが記されています。

 

 

 

 先週の説教の中で、三浦綾子さんの「氷点」(下)の中の、主人公陽子の遺書を読みました。

 

私は、陽子が自分の心の中に「氷点」があるのに気づいたように、財産をもった男の心の中にも「氷点」があったのだと話しました。陽子は自殺(未遂に終わるが)、金持の男は気を落して悲しみながら立ち去ったが、この時こそ神の出番なのです。

 

 三浦綾子さんのエッセイに「藍色の便箋」があります。その中に、夫光世さんが改名を勧められたことが書かれています。光世さんは「確かにわたしは、幼少の時から今に至るまで病気ばかりしています。その点、ご判断は当たっているかも知れません。でも私は、病気をしたことでキリストの神を信じました。そして人生が変わりました。もし健康であったとしたら、恐ろしい生きざまをつづけていたと思います。」と応えています。