2019年度 礼拝説教要約   2019年4月~


2019年7月14日

 

「雄々しく戦いなさい」 テモテへの手紙1章18~20節

 

 

 

 パウロの信任を受けてエフェソの教会に遣わされていたテモテでしたが、いろいろ困った問題が山積みだったようです(127節)。

 

パウロはそんなテモテを励ましていますが、今日の箇所もその一つです。

 

私たちにも八方ふさがりになり、その中に自分も押しつぶされそうになるような経験はあるのではないでしょうか。

 

 

 

パウロがテモテに与えた励ましから学びます。

 

1)説教によって

 

「あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。」18節)

 

この場合の預言は、不特定多数の者に語られた神の言葉というよりも、特定の人(テモテ)に語られた神の言葉だと思われます。私たちは説教が自分に向けて語られているかのように思えることがありますが、これは預言に似ているのかもわかりません。

 

「その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい。」18節)

 

私たちを最終的に力強めるのは神の言葉なのではないでしょうか。

 

 

 

2)信仰は戦い

 

「信仰と正しい良心とを保ちながら、立派に戦い抜きなさい。」(聖書協会共同訳、1819節)

 

私たちが信仰生活をおくることは良いことには間違いありませんが、たやすいことではありません。

 

日常のなかは私たちを惑わすことで満ちています。

 

正常な判断力を失わせて、人を不安におとしいれたり、混乱させたりする。また、そうして好ましくない行動に走らせたりします。

 

戦うための武器は「信仰と正しい良心」です。信仰を教理(キリスト教の教え)、正しい(他の訳では「健全な」)良心を実践と教えているものがありました。

 

聖書の知識だけではなく、正しい良心が必要なのです。

 

パウロはエフェソに宛てて書いた手紙の中では、別の表現で語っています(エフェソの信徒への手紙61317節)

 

 

 

3)失敗者から学べ

 

「ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒瀆してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。」1920節)

 

自分は大丈夫だと思わないで、失敗者から学ぶことです。ヒメナイとアレクサンドロは皆が知っていた人たちだったのでしょう。

 

「挫折」の本来の意味は「破船」です。船が難破する。沈むという単語です。

 

ちょっとした船の操作ミスが大事故を起こしてしまうこともあります。

 


2019年7月7日

 

「唯一の神」 テモテへの手紙1章17節

 

 

 

「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。」17節)

 

 

 

 「神」という「漢字」でどんな神を、あるいは何を思い描き(イメージし)ますか。

 

日本には神社、仏閣がたくさんあります。

 

私の郷里の太宰府市は、「学問の神」で有名な太宰府天満宮があります。分家みたいな「天満宮」が東京にもあります。日本の神話に出てくる神々が祭られている神社もたくさんあります。それぞれに、神さまの名前があります。岩、樹木、山、海、故人なども神として崇められています。交通安全の神、病気治癒の神、縁結びの神、ご利益もさまざまです。

 

仏教も仏閣(お寺)にも、ヒンズゥー教の神々が祭られています。○○如来、○○菩薩、○○観音、○○帝釈天のように天がつく神々が祭られています。神社仏閣の神々だけでも「八百万の神々」と言われるぐらいです。神々によってご利益も違います。いわゆる多神教です。

 

そこから来るイメージが強いと思います。

 

 

 

 それに比べてキリスト教(ユダヤ教も、イスラム教もです)は、いたってシンプル(単純)です。

 

きょうの聖書箇所に出てくる「唯一の神」です。

 

そのほかの聖書の箇所にも、神が唯一であることが書かれています。

 

「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」25節)

 

「神は、定められた時に、キリストを現わしてくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることができないお方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。」61516節)

 

それはイエスが生まれるずっと前からそう信じられていました。

 

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたがたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記64節)

 

「我々を創造されたのは唯一の神ではないか」(マラキ書210節)

 

キリスト者は「唯一の神」を信じています。

 

正しいのは多神教か唯一神教か、との議論が問題ではありません。

 

多神教は「寛容」、唯一神教は「非寛容」と、いうことでもありません。どちらを信じている人にも良い人もいれば、悪い人もいます。多神教信者にも、唯一神信者にも、不思議な体験をされた方はいます。

 

 

 

神を語る時、「あなたの信じているキリスト教はどんなご利益があるのですか」とご利益のことが話題になることがよくあります。

 

あなたの信じるキリスト教の神はどんなご利益がありますかと聞かれたら・・・。

 

わたしの牧師室にある三浦綾子カレンダーの6月のページは、「神とは、この全宇宙を造られた方である。そして、私たち人間を造られた方である」と書かれています。この言葉は三浦綾子著、「一日の労苦は、この日だけで十分です」の題名の本の一節です。

 

私を造られ、私を愛し、私を心底心配し、わたしの人生を共に生きてくださるのがご利益と答えるでしょう。

 


2019年6月30日

 

「キリストの体を造り上げる」 エフェソの信徒への手紙4章11~16節

 

 

 

本日の礼拝は神学校週間(6/23/30)にあたり、聖書より神学校の必要性を話します。

 

 

 

聖書はキリスト教会を「キリストの体を造り上げ」(12節)と言われているように、教会をキリストの体と呼んでいます。

 

教会の頭(かしら)はキリスト(15節)で、教会メンバーはお互いにキリストの体の一部(425節)

 

です。神はキリストの体を造り上げるために一人一人に役割を与えられています。

 

人間が目、鼻、耳、足などがあって一つの体を形作っているのと同じです(コリントの信徒への手紙121227節)。

 

神はキリストの体の一部として、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者(牧師)、教師とされたのです。」(11節)

 

キリストの体を造り上げるために名称や役割は変化してきていますが、現在でも必要とされている働き人です。

 

これらの者たちの働きは、キリストの体の一人一人を整えて奉仕の業をさせ、キリストの体を造り上げるため(12節)に必要とされています。

 

キリスト教会の目指すところは「ついには、私たちは皆、神の子(キリスト)に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」(13節)ことです。

 

 サタンはキリストの体である教会を攻撃してきます。だから、「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたり」(14節)されることなく、

 

「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって、成長して」(15節)

 

いくことを期待されています。

 

 

 

 サタンがアダムとイブ(創世記3章)を、そしてイエス(マルコによる福音書11213節)さえも巧みに惑わそうとしたように、キリストの体である教会を攻撃してきます(テサロニケの信徒への手紙二 29節)。

 

教会が間違った教えに気づかないと、間違った教えを教会が発信する場になっていしまいます。

 

それに対抗するためにも、高い聖書学などの専門知識が必要になります。専門性を育てる一端を担っているのが神学校です。

 

 

 

 私たちの教会は今年度東京基督教大学神学部3年次に編入学した郭 修岩さんを実習神学生として受け入れました。彼が神学校で良い学びができ、良きキリストの働き人となられるように祈り、支えていただきたいと思います。

 

郭さんのように、西南学院大学神学部、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校に牧師、主事、宣教師などの働きに就くために学ばれている神学生たちを覚え、祈りご支援をお願いいたします。

 

 

 


2019年6月23日

「祈りについてはどうですか?」

説教者 パトリック・ンバコ協力牧師


2019年6月16日

「福音の前進」 フィリピの信徒への手紙1章12~19節

説教者 伊藤世里江先生(シンガポール国際日本語教会牧師)


2019年6月9日 ペンテコステ礼拝

 

「聖霊によって」 コリントの信徒への手紙一 123

 

 

 

今日はキリスト教会暦で「ペンテコステ」です。

 

イエスが天にお戻りになる前に弟子たちに聖霊が降るのをエルサレムで待つように命じられます(ルカによる福音書244749節)。

 

「ペンテコステ」はその約束された聖霊が降ったのを記念する日です。

 

なぜこの記念日が「ペンテコステ」と呼ばれているのか。それは、約束の聖霊が降った日が「ペンテコステ(日本語聖書では、五旬祭と訳されている)」というユダヤの祭りの日だったからです(使徒言行録214節)。聖霊が降ったということで、「聖霊降臨日」でもあります。

 

 このことがきっかけとなりその日だけで3000人ほどがクリスチャンになります(〃211節)。

 

ここからキリスト教会が本格的に始まるので教会誕生の日とも言われています。

 

 

 

 私たちはこの記念日に聖霊について学びます。

 

聖霊(精霊とは発音が同じですが別ものです)とは聖なる神の霊で、聖書では御霊とも呼ばれています。

 

聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできません。(聖書協会共同訳 コリントの信徒への手紙123節)

 

「イエスは主である」とはイエスは救い主(メシア、キリスト)なる神ということです。

 

 イエス・キリストを主と信じ、バプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンになっている者すべて、聖霊を受けている者たちです。

 

 

 

 聖霊は私たちの肉眼では見ることはできませんが身近におられて私たちを導いておられる方です。

 

このお方は御父(神)、御子(イエス)と同様に永遠の神です。神の霊、イエスの霊、とも呼ばれています。

 

 

 

イエスは弟子たちにこの方のことを、弁護者、助け主、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる(ヨハネによる福音書1426節)と教えています。

 

 

 

聖霊なる神は重要な場面で働かれている神です。この方がおられなければ私たちの救いは、そして私たちの信仰はありえないのです。

 

 

 

「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェソの信徒への手紙430節)

 

 

 


2019年6月2日

 

「神の憐れみで生きる」 テモテへの手紙一 1章12~16節

 

 あなたは教会の奉仕をどんな気持ちで行っていますか。

 できる人がいないのでできる自分ばかりに教会の奉仕がまわってきて嫌になってしまう、なんて

こともあるかもわかりません。

 

次の聖書のことばは献金のことについてですが、奉仕全般に当てはまることではないでしょうか。

 

「各自、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(聖書協会共同訳 コリントの信徒への手紙二 97節)

 

ここでは、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、喜んでと教えています。

 

  パウロの神への奉仕の原動力は何でしょうか。

 「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。」12節)原動力は感謝です。その感謝の理由は、「この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。」12節)

 

そこには彼の過去(イエスに出会うまでの人生)が関係しています。

 

「以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」13節)

 

パウロは、神は福音をよく理解していなかったのだからとゆるしてくださったばかりか、重要な神の奉仕に就かせてくださったと感謝しているのです。

もう少し詳しく具体的に書いている所が何箇所あります。そこから見ていきます。

ステファノという人物がいました。彼は石打の刑で殺害された最初の殉教者です。その時、石を投げつけた人たちの上着をあずかっていたのが若き頃のパウロでした(使徒言行録75481節)

中堅どころになったパウロのことが使徒言行録9122節に書かれています。

 こには、自分は神のために正しいことを行っているのだと疑わずにいたこと。ところが、ダマスコというところへクリスチャンを捕えにいく途中で自分に語りかけるイエスの声を聞いたこと。

そこにおいて、彼の人生を180度変えてしまう劇的な体験をしたこと。正しいと行動していたことが、正しいどころか、神を冒瀆することであり、迫害することであり、暴力を振るっていることだったことに気づいたということを書いています。

 

イエスに出会うまでのパウロはエリート人生を送っていた人生です。その彼が自分のキャリアを書いている箇所で「しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリピの信徒への手紙378節)と言っています。

 

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた。という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本になるためでした。」11516節)

 

ギリシア語の「罪」は「的外れ」の意味です。大いなる的外れな人生を送っていた自分を引き戻し、本来あるべき自分に導いてくれたイエスに感謝しています。その感謝が彼の奉仕の原動力でした。

 


2019年5月19日

 

「法は人を育てない」 テモテへの手紙一 1章8~11節

 

 

 

 自分のもので、身近にあっても見えないものってわかりますか。

 

答は背中、そして一番は目に最も近いのに見えないのは顔です。

 

それを見ることができる方法があります。

 

鏡です。しかし、鏡で自分の顔をどれだけ見ていても、私たちの顔がきれいになるのではありません。

 

きょうの聖書箇所がそれに似ています。

 

「しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。

 

すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信仰な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘惑する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。」

 

1810節)

 

わたしたちは律法(神の教え、法律、ルール)によって自分たちの罪を見ること、気づくことになります。

 

 わたしたちが律法に書かれていることを見てさえすれば、私たちが罪を犯さなくなるのではありません。正しい者にするのではありません。

 

 鏡のたとえで言えば、鏡を見ているだけでは私たちの顔はきれいになりません。鏡を見て、顔に化粧(手入れ)をして初めてきれいになります。体重計も同じです。私たちは体重計に乗っただけでは、体重がベストな状態になるわけではありません。体重計に乗って、現実を目の当たりにしてショックを受け、痩せるあるいは太る努力をして、ベストな体重になります。

 

 

 

 きょうの聖書は続けてこのように書いています。

 

「祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、そうなのであって、私はその福音を委ねられたのです。(11節 新改訳2017訳) 

 

 私たちに現実を見せてショックを与えるだけならば、福音(良い知らせ)ではないはずです。

 

聖書は神が与える律法は福音だと言っています。それは、神の律法はわたしたちの罪を明らかにするだけではなく、そこからの救いを用意してくれているから福音なのです。

 

 

 

 「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前に義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ローマの信徒への手紙31926節)

 

神の法はわたしたちを罰するのが目的ではなく、救いを与えるのが目的です。

 


2019年5月12日

 

「無意味な学び」 テモテへの手紙一 1章3~7節

 

 

 

きょうは母の日です。テモテの母の名はエウニケ、祖母の名はロイス。

 

キリスト教信仰は祖母、母から引き継いだものです(テモテへの手紙二 145節)。

 

テモテは幼い頃から聖書に親しんできました(〃315節)。祖母や母が幼いテモテを信仰によって育ててきたことがわかります。「母の日」が単なるイベントにとどまることなく、毎日の感謝につながるようにと思っています。

 

 

 

さて、手紙はテモテへの挨拶が終わり、主文に入りました。

 

パウロがマケドニアに行くときに、テモテにエフェソにとどまって、エフェソの教会の人々への指導を

 

任せていたようです。依頼していたことについて手紙で再度頼んでいます。

 

テモテをエフェソにおいてきたのは、教会のなかに異なる(違った)教えを説いたり、作り話や切のない系図に心奪われている人たちがいたからです(4節)。それは無益な議論でしかなく、彼ら自身も言っていることも、確信をもっていって主張していることもほんとは理解していないのです(6節~7節)。

 

彼らは結婚を禁じたり、食べ物を断つように命じたり(テモテへの手紙一43節)議論や口論に病みつきになり、そこから、ねたみ、争い、中傷、じゃすい、絶え間ないいがみ合いを起こしていたようです(〃636節)。

 

彼らは律法の教師でありたちと思っている人たち(7節)ということは、自分は聖書を良く知っているのだ、と思い込み、一目置かれたいとの誘惑に気づかない間に陥っていたのだと考えられます。

 

 

 

ここで大事になるのは聖書の正しい読み方です。

 

「異なる教えを説いたり、作り話や切のない系図に心うばわれたりしない」(34節)

 

目新し教えに心奪われることがないようにしなければなりません。これらを聖霊による覚醒(刺激)と混同してはいけないのです。

 

このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こすだけです(4節)。

 

イエスは「あなたがたは聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証をしているものです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」(ヨハネ53940節  2017訳)と言われています。  

 

あなたが聖書を読むとき何を目標にして読んでいますか。

 

「私のこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標として」(5節 聖書協会共同訳)とあります。自分の聖書の読み方は、愛を目標にしているか絶えず自問自答して聖書を読むことです。 

 

「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。」(テモテへの手紙二 31617節 聖書協会共同訳)

 

そしてそれは、イエスの命令の実行につながっていくためです。

 

「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」(使徒言行録281920節 新改訳2017訳)

 


2019年5月5日

 

「希望であるキリスト・イエス」 テモテへの手紙一 1章1~2節

 

 

 

私たちはきょうの日曜日から「テモテへの手紙一」を学んでいきます。

 

この手紙はパウロからテモテに宛てて送られたものです。

 

少々堅苦しいと思われる挨拶に見えますが、テモテという一個人に宛てて書いたというよりも、

 

同労者としてのテモテに書いているからです。

 

 

 

1)差出人パウロとはいかなる人物か。

 

もともと熱心なユダヤ教徒としてキリスト信者たちを迫害していましたが、ダマスコの町に行く途中で復活のイエスに出会ってキリスト信者となり、特にユダヤ人以外の人たちへ伝道した人物です。

 

使徒言行録754節~81節、91節~31節などを読むとそのことがわかります。

 

「キリスト・イエスによって任命され(命令によって)、キリスト・イエスの使徒(派遣された者、使者)」

 

1節)となったのです。

 

 

 

2)受取人テモテとはいかなる人物か。 

 

使徒言行録161節「 信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父に持つ、テモテという弟子がいた。」

 

テモテへの手紙二 145節「あなたが抱いている純真な信仰を思い起しています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。」

 

フィリピの信徒への手紙220節「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。」

 

「信仰によるまことの子テモテへ。」(2節)パウロにとって子どものような存在だった人物です。

 

 

 

3)わたしたちの希望

 

パウロは、1節、2節の短い文の中に、「救い主」「希望(望み)」「信仰」「恵み」「「憐れみ」「平和(平安)」という言葉を入れています。

 

この言葉はわたしたちが生きていく上で必要なことです。

 

しかし、現実の世界ではそれがないゆえに、(わたしたちの内側にないゆえに)苦しみ、傷つき、倒れてしまっています。

 

「希望の源である神」(ローマ15:13) 「平和の源である神」(ローマ15:3316:20)「恵みの源である神」(一ペトロ5:10

 

「主(神)は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」(詩編1038節)

 

パウロはコリントに宛てて書いた手紙の中で「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙 一 1313節)と述べています。

 

「神は愛である」(一ヨハネ4:84:16

 

 わたしたちがそれらを持ち合わせていなくても、持っておられる神がわたしたちを導いてくださるのです。

 

イエスに出会った者たちは皆そのような体験者なのです。

 

会堂長ヤイロもその中の一人です(マルコによる福音書52143節)

 

 

 


2019年4月28日


2019年4月21日 イースター

 「週の初めの日」 マルコによる福音書16章1~8節

 

「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために、香料を買った。そして、週の初めの朝ごく早く、日の出ると墓に行った。」(1節)

 「週の初めの日」は日曜日のことです。私たちキリスト者が日曜日ごとに礼拝のために教会に集うのは主イエス・キリストが墓(死)よりよみがえられたことを記念する日だからです。

(日曜日が休日なので礼拝する日になったのではありません。)

 

ユダヤの安息日は土曜日ですが、安息日は金曜日の夕方の日没から始まり、土曜日の日没後までです。

 

彼女たちは安息日が終わり、空が明るくなるのを待って香料(アロマオイル)を持ってイエスの葬られた墓に行ったのです。

 

「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上り、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(8節)

 

マルコによる福音書はここで終わっていると考えられています。イエスの復活が書かれていない、唐突な終わり方です。新共同訳聖書などに「結び」とあるのは、後の人たちが他の福音書にあわせて復活したイエスに出会ったところまで書き加えたと考えられている部分です。

 

マルコの福音書の著者マルコはイエスが復活した後、弟子たちや大勢の人たちの前に姿を現したことを知らなかったのでしょうか。マルコによる福音書より以前書かれたパウロの手紙には「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人現れたことです。・・・」(コリントの信徒への手紙一153節~)と知れ渡っていたことから、知っていたと考える方が自然です。

ここで終わらせたのには、著者マルコの意図があったと思います。

 

み使いが「驚くことはない。あなたがた十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活さなって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた通り、そこでお目に書かれる』と。」(67節)

 

女たちはイエスに死なれ、希望がなくなったと思って墓に行っています。しかし、み使いは女たちに、希望が失われたと思っている墓は空だ、そこには希望はない。しかし、イエスが約束されていたとおりガリラヤで再び会える、と福音(良い知らせ、グットニュース)を語っています。 

 

わたしたちも女たちと同じように、「もうだめだ。終わりだ。」と、目の前が真っ暗になる経験は誰しもあると思います。

ガリラヤとは生前イエスが弟子たちと生活をされていた場所です。そこで復活されたイエスに出会うというのです。あなたのガリラヤはあなたの生活の場です。

 

著者マルコは、マリアたちが恐れた後経験したことを読者のあなたがたに書いて教えなくても、あなたがた自身が体験し、理解する時がきます、と言いたかったのではないでしょうか。

あなたのガリラヤにおいて、私たち一人一人が復活のイエスに出会う体験をするのです。

 


2019年4月14日 しょろの主日礼拝

 

「石が叫ぶ」 ルカによる福音書19章37~40節

 

 次の日曜日はイースター礼拝です。

その一週間前の礼拝を棕櫚(しゅろ)の礼拝と呼んでいます。

 

イエスが弟子たちと共にエルサレムに入られた時、民衆が棕櫚の枝をもって出迎えたことを記念した日(ヨハネによる福音書121213節)です。口語訳聖書は「棕櫚の枝」と訳していますが、そのあとに出版された聖書訳はほとんど「なつめやし」と訳しています。

 

この週の金曜日にイエスは十字架に架けられています。

きょうの聖書箇所はまさしくイエスと弟子たちがエルサレムに入場なさったときの話です。

 

 その時イエスの弟子たちが神を賛美し、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、高きところには栄光」と喜びの声をあげたのです。

 

イエスの弟子たちはこの時、自分たちが誤ったイエス理解からイエスに失望、落胆し、イエスを裏切ることなど想像もしていなかったのです。

 

だから、イエスのエルサレム入場を弟子たちは誇らしげに思い、一種の興奮状態にあったのではないかと思います。

 

しかし、そのイエスを快く思っていなかった者たちは賛美の声がしゃくにさわったのです。

 

「すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、『先生、お弟子たちを叱ってください。』と言った」(39節)とあります。

 

イエスは「言っておくが、もしこの人たちが黙れば。石が叫び出す。」(40節)と言われたのです。

 

彼らを黙らせれば石が叫ぶとは、誰も神を賛美する声を黙らせることはできないのだということです。

 

 

 

 イエスにバプテスマを授けたヨハネが自分たちは特別に選ばれた存在だとうそぶいているファリサイ派やサドカイ派の人たちに向かって、「言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(マタイによる福音書39節)と強い口調で言ったとありますが、ここにも「石」という単語が使われています。

 

 きょうのイエスの言葉もヨハネの言葉も神の主権と力が表されているのではないでしょうか。

 

イエスはエルサレム神殿の破壊を預言されました(4144節)が、ティトゥスの攻撃によるエルサレム神殿は紀元70年に破壊、町は陥落されました。

 

ローマの皇帝らによってキリスト教は迫害をうけましたが、紀元313年「ミラノ勅令」によりキリスト教は公認、やがてローマ皇帝の国教となりました。

 


2019年4月7日

「福音を宣べ伝えなさい」 マルコによる福音書16章14~18節

 

 この説教は2019年度の第1回目の主日礼拝の説教です。

きょうの聖書箇所は十字架の死より3日目に復活されたイエスが弟子たちのところへ姿を現された箇所です。

こう書かれています。

それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(1518節)

きょうの箇所から2点お話します。

 

1.使命

イエスは「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と言われています。

これはすべてのキリスト教会に託された使命です。この世にキリスト教会が存在している理由です。

イエスの宣教の言葉の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコによる福音書115節)でした。

イエスは生前12弟子(使徒たち)を呼び出し、福音を宣べ伝えさせるために送り出しています(マルコによる福音書6613節)。

キリスト教会の宣教は時代と共にその形は変わってきていますが、福音の核は変わっていません(たとえばコリントの信徒への手紙一154節)。

 

2.しるし

信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。

手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。

信じる者とは、イエスの命令に従って福音を宣べ伝える者たちのことであります。

そして福音を宣べ伝える者たちに神からの人知を超えた不思議な助けがあるということです。

使徒言行録はキリスト教会の誕生した頃のことを書いていますが、そこには福音を宣べ伝えた者たちに実際起こったことが書かれています。

その一つが、新しい言葉です。新しい言葉とは異言のことです。ペンテコステの日にキリスト者たちが異言を語りだし、そのことがきっかけで福音が宣べ伝えられたのです(使徒言行録2章)。

 また、使徒言行録にパウロがマルタ島で体験したことが記述されています(使徒言行録28110節)。

彼らを乗せた船が難破して、彼らがマルタ島にたどり着いた時のことです。島民の見ている前でパウロはまむしにかまれます。島民はパウロがまむしの毒で体がはれ上がるか死ぬだろうと見ていました。

しかし、パウロの身には「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず」と言われたように何も起こりませんでした。神がパウロの使命が全うされるように助けられたのです。

更にこの島で、「病人に手を置けば治る」と言われたことが実際に起こっています。

それは、パウロが熱病と下痢で床についていた病人に手を置いて治したことです。

キリスト教会(キリスト者)が全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えるという使命に生きる時、神はしるしを見せてくださるのです。