2019年度 礼拝説教要約   2019年4月~


2019年10月6日

 

説教題:「しっかり守りなさい」 聖書箇所:テモテへの手紙一 4章14節~16節

 

 

 

 エフェソの教会はテモテに好意的な人だけではありません。なかには快く思っていない者たちもいました。快く思わない人たちはテモテの言葉や行動に厳しい目を向けていたと考えられます。

 

緊迫した状態にあったことがわかります。パウロはテモテにそのような人の目を気にせず、

 

むしろ、積極的に、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい、と勧めているのです。

 

 

 

 パウロは、言葉や、行動や、愛、信仰、純潔などは自分の力だけで行うのではないことを

 

「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。」(4章14節~15節)

 

ここで言われている「恵みの賜物」の、原語のコイネーギリシア語は「カリスマ」という単語です。

 

日本では、「カリスマ美容師」などと使われますが、聖書に用いられている「カリスマ」は神から与えられる特別な霊的恵みの力のことです。

 

パウロたちはテモテに手を置き祈り、テモテへの使命を語ったのです。それが「預言」と言われているものです。

 

 

 

パウロはテモテに按手によって与えられた恵みの賜物を軽んじてはなりません(テモテへの手紙一  4章14節)、と書いています。この「軽んじる」のもともとの意味は「無視する、軽視する、気にかけない、無頓着」です。

 

神から与えられている神の賜物を無視してはならない。言葉を変えて言いなおすと、あなたの内に働く神の霊的な恵みの力を信じなさい、ということではないでしょうか。

 

「神の賜物を、再び燃え立たせなさい」(テモテへの手紙二 1章6節)に続けて

 

「神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮(慎み)の霊だからです。」(テモテへの手紙二 1章7節)と言われているように、です。

 

 

 

パウロはテモテに思い出させようとしているのです。

 

あの時、授けられた按手を思い出してほしい。あの時与えられた神のあなたへの個人的な言葉を思い出してほしい。そんな願いがここにはあるのではないでしょうか。

 

キリスト者はもうすでに神からの恵みの賜物が与えられています。その恵みの賜物を無視して、自分は無力だと臆病にならないことです。

 

「私はあなたに思い起してほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」(テモテへの手紙二 1章6節~7節)とあるように、神から与えられた力と愛と慎みの霊の助けによって

 

テモテも私たちも「言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で」(テモテへの手紙一4章12節)進歩させていただけるのではないでしょうか。

 

 

 


2019年9月29日

 

「葬り」 創世記23章1~4節

 

 

 

今日、私たちは聖書より「葬り」について考えていきたいと思います。

 

神はハランの地に住んでいたアブラハムに語りかけられます。

 

「あなたは生まれた故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の基(もとい)となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う人をわたしは呪う。地上のすべての民族はあなたによって祝福される。」(創世記1213節)

 

アブラハムは、神が告げられたとおりに出かけていきます。

 

波乱万丈の人生でした。しかし、神の助けと憐れみと祝福があった人生でした。

 

それを乗り越えてきたアブラハムとサラ夫婦でした。(創世記12章~22章)

 

その妻サラが亡くなったときのことがきょうの箇所には書かれています。

 

カナンの地は神から住むようにと言われた土地ではありましたが、そこには、すでに住んでいる人たちがいました。だから、墓地を買いたいと申し出たのです。

 

彼は墓地の所有者と幾つかの交渉の後、墓地を買い取りました。そこにサラの遺体を葬ったのです。(創世記23320節)

 

アブラハムは悲しみを表に出して、泣くだけ泣いています。私たちも悲しみをこらえる必要はないのです。泣くだけ泣いて、しかし、そこから立ち上がるのです。

 

アブラハムがまず行ったことは、葬りの準備です。葬るための墓地を買うことでした。

 

アブラハムは妻サラとのこの世での別れを葬るという儀式で受け入れる時としたのではないでしょうか。

 

私たちにとって、葬儀や埋葬などはそのように死の現実を受け止める作業の時なのだと思うのです。 

 

「信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くように招かれたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。信仰によって、アブラハムは、他国人として約束の地に寄留し、同じ約束を受け継ぐイサク、ヤコブと共に幕屋に住みました。」(ヘブライ人への手紙1189節)「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものは手にしませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです。彼らはこのように言うことで、自分の故郷を求めていることを表明しているのです。

 

もし出て来た故郷のことを思っていたのなら、帰る機会はあったでしょう。ところが実際は、彼らはさらにまさった故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。事実、神は、彼らのために都を用意しておられたのです。」(ヘブライ人への手紙111316節)

 

アブラハムの故郷は墓地ではありませんでした。天の故郷だということが分かります。

 

私たちにとってお墓や遺影(亡くなった方のお写真)は亡くなった方々を思い出すたいせつな手段(ツール)ではありますが、そこに亡くなった方が存在しているのではありません。

 

 

 

神によって造られた私たちは、神のもとへ帰るのです。それが天の故郷です。 

 

キリスト者たちはそこに慰めをいただいています。

 

私たちはイエスが来られたことによってアブラハムが知っていた以上に私たちが帰るべきところを知らされています。イエスが十字架で死なれ、墓より3日目によみがえられたことにより、私たちはアブラハム以上に確かな天国へ行く確信をいただけています。

 


2019年9月22日


2019年9月15日

 

「役目」 ルカによる福音書2章22~38節

 

 

 

 明日日本の暦(こよみ)は「敬老の日」です長寿は喜ばしいことではありますが、何歳まで生きることができたか、が一番大事なことではありません。

 

誰を信じて生きたか、どう生きたかが大事なことではないかと思います。

 

 

 

きょうの話の背景をお話しなければならないと思います。

 

2224節をお読みします。このことが書かれているモーセの律法は旧約聖書の中のレビ記12章です。

 

ここに出産についての規定が書かれています。イエスの両親はその習わしに従ったのです。

 

イエスの両親は幼子イエスを連れてナザレの町からエルサレムへと行きました。

 

その神殿でイエスの両親はシメオンとアンナの二人の人物に出会います。

 

この二人の共通点は老人だということです。二人の老人から今日は学びます。

 

まず、シメオンについて見ていきます。

 

シメオンは預言者の働きをしていたと考えられます。その彼の最後の役目が幼子イエスを証することでした。彼は幼子イエスを腕に抱き、わたしはこの目で神の救いを見たと語ります。そして、この幼子がすべての民を救う救い主であると宣言します。

 

彼はこの大役を果たしたので、安堵し「この僕を安らかに去らせてくださいます。」と言ったのです。

 

イエスの両親はイエスを産み育てるという役目を担っていた人物たちでした。

 

シメオンはその彼らのために祝福の祈りをしたのです。彼の役目は次の役目を担う者たちの祝福を祈ることでした。シメオンは年老いてもなお神から与えられた役目に忠実だったのです。

 

 

 

次に、もう一人の人物アンナを見ていきます。

 

シメオンがイエスの両親と会ったとき、アンナもそこで両親と会っています。

 

こう書かれています。「そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」(38節)

 

預言者であるアンナは幼子イエスとその両親が神殿に来ることを告げられていたのです。

 

彼女もまたシメオンと同じように神から与えられた役目に生きた人物でした。

 

アンナは「断食したり祈ったりして、昼も夜も神に仕えていた」(37節)のですから、お元気だったようです。

 

人それぞれです。皆が皆、元気とはいきません。

 

年を取ると、若かったときのような気力、体力、知力もなくなります。

 

少し前までやれていたことができなくなります。奉仕に関しても同じです。もどかしさを覚えるときがあるかもしれません。

 

シメオンとアンナのことを考えてください。彼らは今までやれていたことができなくなったから、

 

仕方なく彼らにもできそうな幼子とその両親に会う役目を与えられたのではありません。

 

幼子とその両親に出会い、証する役目はものすごく大事な役目です。

 

わたしたちは神からそれぞれに備えられた役目が与えられているのではないでしょうか。

 

一人一人に神から与えられた役目は違います。しかし、神から与えられた役目はどれも貴い役目です。

 

私たちのこの世での人生が終わるその最後の最後まで役目を果たしていければと思います。

 

私たちは老いてなお神から役目を与えられていることを忘れないようにしたいと思います。

 


2019年9月8日

 

「軽んじられないように」 テモテへの手紙4章11~13節 

 

 

 

 「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。

 

むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。」(4:12

 

テモテがパウロからの手紙を受け取った時、何歳だったかは書かれていません。若いということばは40歳ぐらいまで使われていました。パウロの年齢は当時60歳を超えていたと思われます。テモテとは親子ほどの年の差があったのは間違いありません。テモテが30歳後半の年齢だったのか、もっと若かったのかはわかりません。しかし、パウロがテモテにだれからも軽く見られてはならない(12節)と忠告しているのですから、エフェソの教会の人たちの中にテモテを軽く見ていた人たちがいたことは間違いないようです。

 

 

 

 なぜエフェソの教会のメンバーの中に、テモテを軽んじる者たちがいたのでしょうか。

 

ヨハネの黙示録を読みと、神はエフェソの教会に、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ、もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。」(ヨハネの黙示録245節)と警告しています。

 

エフェソの教会は教会が誕生し何十年と経つうちに、神の愛から離れてしまったのです。愛のない行いをする教会になってしまったのです。

 

それが教会の指導者への軽視ということでもでてきたのです。

 

テモテが若いということだけの理由で、彼らの偏見は変わらず、軽く見ていたのです。

 

それに対して、パウロはテモテに「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。

 

むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。」(4:12)と勧めています。軽んじる人たちに対して、

 

パウロが「信じる者たちの模範になりなさい。」(4:12)と勧めている理由を、パウロがテトスに宛てた

 

手紙の中から見ることができます。

 

「監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです。わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず、乱暴でなく、恥ずべき利益をむさぼらず、かえって、客を親切にもてない、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。」(テトスへの手紙179節)

 

反対者の主張を正すためにも模範となることを勧めているということだと考えられます。

 

 

 

イエスの語られた言葉に「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何もあてにしないで貸しなさい。」(ルカによる福音書635節)「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイによる福音書644節)とあります。

 

わたしは、パウロがテモテに「信じる人々の模範となりなさい」(テモテへの手紙一412節)と書き記した時、パウロの頭のなかにはイエスのこれらの言葉があったのではないかと考えています。

 

 

 


2019年9月1日

 

「立派な奉仕者」 テモテへの手紙4章6~10節 

 

 

 

あなたはキリスト・イエスの立派な奉仕者になりたいと思いませんか。

 

 立派な奉仕者となるには何が必要かを学びたいと思います。

 

 

 

第1のポイント「立派な奉仕者とは」です。

 

「キリスト・イエスの立派な奉仕者」の「奉仕者」について見てみます。

 

「奉仕者」の単語のもとの言葉であるコイネー・ギリシア語は「ディアコノス」という単語が使われています。

 

「ディアコノス」のことを教えている聖書箇所を見てみましょう。

 

マタイによる福音書202028節、またマルコによる福音書103545節にも書かれている話です。

 

「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者たちはその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの間で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で頭(かしら)になりたい者は、皆の僕(しもべ)になりなさい。」(マタイによる福音書202527節)と話されました。

 

一般的な世の中の考えでは、何かの役職につくと偉くなったと勘違いして威張り始めるものです。

 

イエスはほんとに偉いと呼べるのは、権力を振りかざして弱い者いじめをする人ではありません。

 

そうではなく、皆に仕える者だとおっしゃったのです。この「仕える者」のコイネー・ギリシア語の単語に「ディアコノス」が使われています。

 

 

 

第2のポイント「避けるべき」です。

 

立派な奉仕者になるためには避けるべきことがあるのです。

 

聖書は何を避けなさい、と書いていますか。

 

「俗悪で愚にもつかない作り話を避けなさい。」(7節)とあります。

 

奉仕者としての心構えをしっかりしていくために、これらの言葉を意識して気をつけておくことが必要です。そうでないと、それらの言葉にしらずしらずに影響されて、間違った奉仕者になってしまいます。

 

 

 

第3のポイント「鍛錬」です。

 

立派な奉仕者になるためには鍛錬が必要です。

 

パウロは「体の鍛錬」に対して信心の鍛錬を勧めています。信心の鍛錬は「わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望をおいているからです。」(10節)

 

とあるように、神への希望から起こってくる信仰の戦いのことです。

 

わたしたちが神の愛によって奉仕をする時、苦難もあります。私たちは「体の鍛錬」というメニューをわざわざつくらなくても「信心の鍛錬」は奉仕する時に起こってくるものです。

 

私たちが聖書のみ言葉と祈りによって信仰の戦いを戦うなら、立派な奉仕者として育っていきます。

 


2019年8月25日

「感謝して受け取る」 テモテへの手紙4章1~5節 

 

わたしは3つのポイントでお話します。

 

第一のポイント  「惑わし」

 

使徒言行録244~47節を読みましょう。

 そこには、私たちが目標としたい理想の教会の姿が書かれています。

 しかし、それは長くは続きませんでした。間違った教えを説く者、偽りを語る者たちが出てきたからです。私たちが神に誠実に、忠実に生きようとするとき、そうさせまいと、私たちを神の救いから離そうとする敵対者もでてくるのです。

 

パウロがテモテをエフェソにある教会にとどまらせたのも、作り話や系図の間違った解釈をする者たちがいたからです。それで、教会は混乱していたのです。

 

パウロは「惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れる者がいます。」(1節)と警告しています。「このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。」(2節)

真理を語ろうとする者たちがいるところには、それを邪魔する偽りを語る者たちもでてきます。 

偽善とは見せかけのことです。立派な指導者や信仰者のようにみせかけて人々を信仰から離れるように誘導しようとするのです。偽りを語る者たちの偽善は人々を魅了します。

 

2のポイント  「偽った教え」

エフェソの教会で実際どんなことが起ったのでしょうか。

彼らはみんなに「結婚を禁じたり、食べ物を断つよう命じたり(3節)していたとあります。

 

結婚を禁じること、また食べ物を断つことは、信仰上の理由によることでした。

彼らは自分たちの善い行いが救いの条件には必要だと考え、他の人たちにも強要しているのです。

目に見える行いをすることで信仰生活に安定を得ようとしていたのではないかと思います。

それは、神に喜ばれるための行いではなく、自分の自己満足のための行いです。

 

第3のポイント  「感謝して受け取る」

創世記1章には、神が天と地を創造なさったときのことが書かれています。

神は6日間で、すべてのものを造られました。神は1日目、2日目と次々にいろんなものを造られましたが、1日が終わる度に見て良しとされ、すべてを造り終えた神はすべてを見て非常に良かったと書かれています。

神が造られたものはすべて良かったのです。しかし、それを台なしにしたのは、人間です。

 

私たちの思いではなく、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。

アダムとエバは善悪の知識の木の実を感謝して受け取ってはいないことは明らかです。自らの罪をわかっていたはずですから、後ろめたい気持ちで感謝して受け取ることができたとは思えません。

私たちは神が造られたよいものだと、感謝して受け取っているか、あるいは受け取ることができるかどうか、が問われているのではないでしょうか。

 


2019年8月18日

「神の家」 テモテへの手紙3章14~16節 

 

 

 この箇所から、3つのポイントでお話します。

 

1つ目のポイントは「神の家」、二つ目のポイントは「真理の柱、土台」、3つ目のポイントは「真理とは」

 

です。

 

1)神の家

 

「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」(15節)と書かれています。 

 

教会は「神の家」と呼ばれています。

 

日本語で「教会」と訳されている単語(英語では「チャーチ」)はギリシア語では「エクレシア」です。

 

「人々の集まり」あるいは「集会」と言う意味があります。

 

だから、教会は建物のことではありません。教会はキリストを信じる者たちが集まっている群れのことです。

 

使徒言行録に教会が「神の家」と呼ばれていた時のことが記されています。

 

キリスト教会が誕生して間もなくのことです。

 

「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって、一緒に食事をし、神を賛美していた」とあります。ここに「家ごとに集まって」いたと記されています。

 

私たちは初期のキリスト者たちの礼拝の中に教会の本質をみなければならないと思っています。

 

 

 

2)真理の柱、土台

 

 15節を読みます。「家の教会とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」(15節)

 

「生ける神の教会」でなければならないことは当然です。

 

聖書は、教会そのものが真理の柱であり土台であると教えています。

 

建造物で柱や土台は大事です。普段、柱や土台の良し悪しは見た目ではわかりません。

 

良い柱や良い土台を造るにはコストや時間がかかるものです。

 

教会学校での聖書の学びや短期聖書学校の学びなどは柱と土台造りのためにあります。

 

積極的に出席していただきたいと思っています。

 

 

 

3)真理とは

 

教会の柱と土台となる真理とは何のことでしょうか。

 

16節を読みます。この賛歌にはキリストのことが述べられています。

 

ペトロは説教で「この人(生まれつき足の不自由な人)が良くなって、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録41012節)と。この捨てられた石、親石はキリストのことです。今日の箇所の柱であり、土台です。

 

神が、私たちの船橋教会を真理の柱と土台である生ける神の教会としておられることを信じて、

 

ご一緒に真理を学び、真理を伝えていきましょう。

 


2019年8月11日

 

「宣べ伝えるべきこと」 テモテへの手紙2章5~7節 

 

 

 

さて、日本語による一般礼拝はテモテへの手紙一から学んでいます。

 

きょうは2章5~7節です。

 

パウロが愛弟子のテモテを励ますために書いた手紙です。テモテはエフェソの教会に遣わされていましたが、間違った教えを語る者たちがいて教会が混乱して苦労していたのです。

 

今日の箇所から3つのポイントでお話します。

 

 

 

1)神は唯一

 

5節に「神は唯一であり」とあります。日本人のほとんどが多くの神や仏がいると教えられ、信じ拝んでいます。キリスト教に出会う前の私もそうでした。

 

「イエスが神である」と聞いても、その神々の中のお一人だと受け取っている方もいます。

 

だからイエスは神であると聞いても驚かないのです。

 

ところが、「神は唯一です。」と聞くと他の神々をないがしろにしていると驚くか、あるいは「キリスト者は寛容さがない」と反感を持つのです。

 

先ず、私たちは、聖書がどなたを神と呼んでいるのかを知る必要があります。

 

新島襄は「誰が私を創ったのか。両親か、いや、神だ。そうであるなら私は神に感謝し、神を信じ、神に対して正直にならなくてはならない。」と語ったと言われています。

 

神とはどなたであるかを知ってほしいと願います。

 

 

 

2)神と人との間の仲介者もおひとり

 

「神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。」

 

証しとは、私たちの罪のために十字架に架かって死んでくださったことを指しています。

 

パウロがローマの信徒に宛てた手紙の中で「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストはわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマの信徒への手紙58節)と書いています。

 

イエスは神であり、人間になられたからこそ仲介者になれるのです。

 

カトリック教会ではイエスを唯一の仲介者にしていません。もう一段イエスと人間の間の仲介者にマリアや12使徒や聖人たちをおいています。直接イエスに仲介者になっていただくのは申し訳ないという意味があるそうです。しかし、聖書は、神と人との間の仲介者はキリスト・イエスおひとりだと語っています。

 

 

 

3)宣べ伝えるべきこと

 

パウロは「その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。」と書いています。

 

パウロはその中で唯一の神、またキリスト・イエスの十字架の贖いを宣べ伝える働きに召されていたのです。キリスト教会が誕生した当時の記録を書いている「使徒言行録」によれば、パウロたちがアテネで伝道した時のことが記されています(使徒言行録171634節)。ここには、唯一神を伝える難しさと、救われる者が起こされた恵みが書き記さています。

 


「奉仕とはなんですか?」

ペトロの手紙一 4章10~11節

2019年8月4日


2019年7月28日

『First Love(はじめの愛)」 ヨハネの黙示録2章2~4節

 


2019年7月21日

 

「すべての人のために祈る」 テモテへの手紙2章1~4節 

 

 今日の聖書箇所は「祈りとは何か」を私たちに教えています。

 

「祈りとは何か」の答えは人によって様々だと思います。

 

私はキリスト教とは無縁の家庭で生まれ育ちましたから、「祈り」は「願いごと」というのがまず浮かびます。その願いごとの大半は自分と自分の家族に関係するものでした。

 

他の経験をなさっておられる方は別の「祈りとは何か」と答えが違うでしょう。

 

 皆さんはいかがでしょうか。

 

さて、きょうの箇所から「祈りとは何か」を聴きていきましょう。

 

「そこで、まず第一に勧めます。」1節)

 

 「第一」というのは順序のことでもありますが、何よりもまずすべきことという意味があります。

 

「そこで」は前にある文章を継いでいることがわかります。前の文章(前週の説教の箇所)はパウロがテモテを励ましているところです。そこには、信仰の戦いが書かれています。

 

信仰の戦いには何よりもまず「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」1節)が伴わなければなりません、ということではないでしょうか。

 

1)祈りの要素

 

「願いと祈りと執り成しと感謝と」は祈りのことです。わたしたちはここから、祈りの要素を見ることができます。

 

①願い

 

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネによる福音書157節)

 

②執り成し

 

祈りは自分のことだけを祈りのではなく、他の方のためにも祈ることを教えています。

 

イエスご自身がまず執り成し続けておられます。「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(ヘブライ人への手紙725節)

 

③感謝

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケへの手紙一51518節)

 

2)誰のため

 

「すべての人々のために」(1節)この中には「王たちやすべての高官のために」(2節)が含まれています。日本には王はいませんが、皇室があります。皇室に対しては賛成、反対、好き、嫌いといろいろな考え方があります。この祈りはそのことを超越して、皇室、政治家のために祈ることを教えています。

 

3)なぜ、そのような祈りが必要か

 

「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。」23節)

 

国が平和であり、また信教の自由が保障されるためです。

 

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」4節)

 

すべての人々が救われて真理を知るようになることを神は望んでおられます。

 

すべてはこの方向に向かうためです。

 

 

 


2019年7月14日

 

「雄々しく戦いなさい」 テモテへの手紙1章18~20節

 

 

 

 パウロの信任を受けてエフェソの教会に遣わされていたテモテでしたが、いろいろ困った問題が山積みだったようです(127節)。

 

パウロはそんなテモテを励ましていますが、今日の箇所もその一つです。

 

私たちにも八方ふさがりになり、その中に自分も押しつぶされそうになるような経験はあるのではないでしょうか。

 

 

 

パウロがテモテに与えた励ましから学びます。

 

1)説教によって

 

「あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。」18節)

 

この場合の預言は、不特定多数の者に語られた神の言葉というよりも、特定の人(テモテ)に語られた神の言葉だと思われます。私たちは説教が自分に向けて語られているかのように思えることがありますが、これは預言に似ているのかもわかりません。

 

「その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい。」18節)

 

私たちを最終的に力強めるのは神の言葉なのではないでしょうか。

 

 

 

2)信仰は戦い

 

「信仰と正しい良心とを保ちながら、立派に戦い抜きなさい。」(聖書協会共同訳、1819節)

 

私たちが信仰生活をおくることは良いことには間違いありませんが、たやすいことではありません。

 

日常のなかは私たちを惑わすことで満ちています。

 

正常な判断力を失わせて、人を不安におとしいれたり、混乱させたりする。また、そうして好ましくない行動に走らせたりします。

 

戦うための武器は「信仰と正しい良心」です。信仰を教理(キリスト教の教え)、正しい(他の訳では「健全な」)良心を実践と教えているものがありました。

 

聖書の知識だけではなく、正しい良心が必要なのです。

 

パウロはエフェソに宛てて書いた手紙の中では、別の表現で語っています(エフェソの信徒への手紙61317節)

 

 

 

3)失敗者から学べ

 

「ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒瀆してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。」1920節)

 

自分は大丈夫だと思わないで、失敗者から学ぶことです。ヒメナイとアレクサンドロは皆が知っていた人たちだったのでしょう。

 

「挫折」の本来の意味は「破船」です。船が難破する。沈むという単語です。

 

ちょっとした船の操作ミスが大事故を起こしてしまうこともあります。

 


2019年7月7日

 

「唯一の神」 テモテへの手紙1章17節

 

 

 

「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。」17節)

 

 

 

 「神」という「漢字」でどんな神を、あるいは何を思い描き(イメージし)ますか。

 

日本には神社、仏閣がたくさんあります。

 

私の郷里の太宰府市は、「学問の神」で有名な太宰府天満宮があります。分家みたいな「天満宮」が東京にもあります。日本の神話に出てくる神々が祭られている神社もたくさんあります。それぞれに、神さまの名前があります。岩、樹木、山、海、故人なども神として崇められています。交通安全の神、病気治癒の神、縁結びの神、ご利益もさまざまです。

 

仏教も仏閣(お寺)にも、ヒンズゥー教の神々が祭られています。○○如来、○○菩薩、○○観音、○○帝釈天のように天がつく神々が祭られています。神社仏閣の神々だけでも「八百万の神々」と言われるぐらいです。神々によってご利益も違います。いわゆる多神教です。

 

そこから来るイメージが強いと思います。

 

 

 

 それに比べてキリスト教(ユダヤ教も、イスラム教もです)は、いたってシンプル(単純)です。

 

きょうの聖書箇所に出てくる「唯一の神」です。

 

そのほかの聖書の箇所にも、神が唯一であることが書かれています。

 

「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」25節)

 

「神は、定められた時に、キリストを現わしてくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることができないお方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。」61516節)

 

それはイエスが生まれるずっと前からそう信じられていました。

 

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたがたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記64節)

 

「我々を創造されたのは唯一の神ではないか」(マラキ書210節)

 

キリスト者は「唯一の神」を信じています。

 

正しいのは多神教か唯一神教か、との議論が問題ではありません。

 

多神教は「寛容」、唯一神教は「非寛容」と、いうことでもありません。どちらを信じている人にも良い人もいれば、悪い人もいます。多神教信者にも、唯一神信者にも、不思議な体験をされた方はいます。

 

 

 

神を語る時、「あなたの信じているキリスト教はどんなご利益があるのですか」とご利益のことが話題になることがよくあります。

 

あなたの信じるキリスト教の神はどんなご利益がありますかと聞かれたら・・・。

 

わたしの牧師室にある三浦綾子カレンダーの6月のページは、「神とは、この全宇宙を造られた方である。そして、私たち人間を造られた方である」と書かれています。この言葉は三浦綾子著、「一日の労苦は、この日だけで十分です」の題名の本の一節です。

 

私を造られ、私を愛し、私を心底心配し、わたしの人生を共に生きてくださるのがご利益と答えるでしょう。

 


2019年6月30日

 

「キリストの体を造り上げる」 エフェソの信徒への手紙4章11~16節

 

 

 

本日の礼拝は神学校週間(6/23/30)にあたり、聖書より神学校の必要性を話します。

 

 

 

聖書はキリスト教会を「キリストの体を造り上げ」(12節)と言われているように、教会をキリストの体と呼んでいます。

 

教会の頭(かしら)はキリスト(15節)で、教会メンバーはお互いにキリストの体の一部(425節)

 

です。神はキリストの体を造り上げるために一人一人に役割を与えられています。

 

人間が目、鼻、耳、足などがあって一つの体を形作っているのと同じです(コリントの信徒への手紙121227節)。

 

神はキリストの体の一部として、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者(牧師)、教師とされたのです。」(11節)

 

キリストの体を造り上げるために名称や役割は変化してきていますが、現在でも必要とされている働き人です。

 

これらの者たちの働きは、キリストの体の一人一人を整えて奉仕の業をさせ、キリストの体を造り上げるため(12節)に必要とされています。

 

キリスト教会の目指すところは「ついには、私たちは皆、神の子(キリスト)に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」(13節)ことです。

 

 サタンはキリストの体である教会を攻撃してきます。だから、「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたり」(14節)されることなく、

 

「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって、成長して」(15節)

 

いくことを期待されています。

 

 

 

 サタンがアダムとイブ(創世記3章)を、そしてイエス(マルコによる福音書11213節)さえも巧みに惑わそうとしたように、キリストの体である教会を攻撃してきます(テサロニケの信徒への手紙二 29節)。

 

教会が間違った教えに気づかないと、間違った教えを教会が発信する場になっていしまいます。

 

それに対抗するためにも、高い聖書学などの専門知識が必要になります。専門性を育てる一端を担っているのが神学校です。

 

 

 

 私たちの教会は今年度東京基督教大学神学部3年次に編入学した郭 修岩さんを実習神学生として受け入れました。彼が神学校で良い学びができ、良きキリストの働き人となられるように祈り、支えていただきたいと思います。

 

郭さんのように、西南学院大学神学部、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校に牧師、主事、宣教師などの働きに就くために学ばれている神学生たちを覚え、祈りご支援をお願いいたします。

 

 

 


2019年6月23日

「祈りについてはどうですか?」

説教者 パトリック・ンバコ協力牧師


2019年6月16日

「福音の前進」 フィリピの信徒への手紙1章12~19節

説教者 伊藤世里江先生(シンガポール国際日本語教会牧師)


2019年6月9日 ペンテコステ礼拝

 

「聖霊によって」 コリントの信徒への手紙一 123

 

 

 

今日はキリスト教会暦で「ペンテコステ」です。

 

イエスが天にお戻りになる前に弟子たちに聖霊が降るのをエルサレムで待つように命じられます(ルカによる福音書244749節)。

 

「ペンテコステ」はその約束された聖霊が降ったのを記念する日です。

 

なぜこの記念日が「ペンテコステ」と呼ばれているのか。それは、約束の聖霊が降った日が「ペンテコステ(日本語聖書では、五旬祭と訳されている)」というユダヤの祭りの日だったからです(使徒言行録214節)。聖霊が降ったということで、「聖霊降臨日」でもあります。

 

 このことがきっかけとなりその日だけで3000人ほどがクリスチャンになります(〃211節)。

 

ここからキリスト教会が本格的に始まるので教会誕生の日とも言われています。

 

 

 

 私たちはこの記念日に聖霊について学びます。

 

聖霊(精霊とは発音が同じですが別ものです)とは聖なる神の霊で、聖書では御霊とも呼ばれています。

 

聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできません。(聖書協会共同訳 コリントの信徒への手紙123節)

 

「イエスは主である」とはイエスは救い主(メシア、キリスト)なる神ということです。

 

 イエス・キリストを主と信じ、バプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンになっている者すべて、聖霊を受けている者たちです。

 

 

 

 聖霊は私たちの肉眼では見ることはできませんが身近におられて私たちを導いておられる方です。

 

このお方は御父(神)、御子(イエス)と同様に永遠の神です。神の霊、イエスの霊、とも呼ばれています。

 

 

 

イエスは弟子たちにこの方のことを、弁護者、助け主、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる(ヨハネによる福音書1426節)と教えています。

 

 

 

聖霊なる神は重要な場面で働かれている神です。この方がおられなければ私たちの救いは、そして私たちの信仰はありえないのです。

 

 

 

「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェソの信徒への手紙430節)

 

 

 


2019年6月2日

 

「神の憐れみで生きる」 テモテへの手紙一 1章12~16節

 

 あなたは教会の奉仕をどんな気持ちで行っていますか。

 できる人がいないのでできる自分ばかりに教会の奉仕がまわってきて嫌になってしまう、なんて

こともあるかもわかりません。

 

次の聖書のことばは献金のことについてですが、奉仕全般に当てはまることではないでしょうか。

 

「各自、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(聖書協会共同訳 コリントの信徒への手紙二 97節)

 

ここでは、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、喜んでと教えています。

 

  パウロの神への奉仕の原動力は何でしょうか。

 「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。」12節)原動力は感謝です。その感謝の理由は、「この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。」12節)

 

そこには彼の過去(イエスに出会うまでの人生)が関係しています。

 

「以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」13節)

 

パウロは、神は福音をよく理解していなかったのだからとゆるしてくださったばかりか、重要な神の奉仕に就かせてくださったと感謝しているのです。

もう少し詳しく具体的に書いている所が何箇所あります。そこから見ていきます。

ステファノという人物がいました。彼は石打の刑で殺害された最初の殉教者です。その時、石を投げつけた人たちの上着をあずかっていたのが若き頃のパウロでした(使徒言行録75481節)

中堅どころになったパウロのことが使徒言行録9122節に書かれています。

 こには、自分は神のために正しいことを行っているのだと疑わずにいたこと。ところが、ダマスコというところへクリスチャンを捕えにいく途中で自分に語りかけるイエスの声を聞いたこと。

そこにおいて、彼の人生を180度変えてしまう劇的な体験をしたこと。正しいと行動していたことが、正しいどころか、神を冒瀆することであり、迫害することであり、暴力を振るっていることだったことに気づいたということを書いています。

 

イエスに出会うまでのパウロはエリート人生を送っていた人生です。その彼が自分のキャリアを書いている箇所で「しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリピの信徒への手紙378節)と言っています。

 

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた。という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本になるためでした。」11516節)

 

ギリシア語の「罪」は「的外れ」の意味です。大いなる的外れな人生を送っていた自分を引き戻し、本来あるべき自分に導いてくれたイエスに感謝しています。その感謝が彼の奉仕の原動力でした。

 


2019年5月19日

 

「法は人を育てない」 テモテへの手紙一 1章8~11節

 

 

 

 自分のもので、身近にあっても見えないものってわかりますか。

 

答は背中、そして一番は目に最も近いのに見えないのは顔です。

 

それを見ることができる方法があります。

 

鏡です。しかし、鏡で自分の顔をどれだけ見ていても、私たちの顔がきれいになるのではありません。

 

きょうの聖書箇所がそれに似ています。

 

「しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。

 

すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信仰な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘惑する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。」

 

1810節)

 

わたしたちは律法(神の教え、法律、ルール)によって自分たちの罪を見ること、気づくことになります。

 

 わたしたちが律法に書かれていることを見てさえすれば、私たちが罪を犯さなくなるのではありません。正しい者にするのではありません。

 

 鏡のたとえで言えば、鏡を見ているだけでは私たちの顔はきれいになりません。鏡を見て、顔に化粧(手入れ)をして初めてきれいになります。体重計も同じです。私たちは体重計に乗っただけでは、体重がベストな状態になるわけではありません。体重計に乗って、現実を目の当たりにしてショックを受け、痩せるあるいは太る努力をして、ベストな体重になります。

 

 

 

 きょうの聖書は続けてこのように書いています。

 

「祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、そうなのであって、私はその福音を委ねられたのです。(11節 新改訳2017訳) 

 

 私たちに現実を見せてショックを与えるだけならば、福音(良い知らせ)ではないはずです。

 

聖書は神が与える律法は福音だと言っています。それは、神の律法はわたしたちの罪を明らかにするだけではなく、そこからの救いを用意してくれているから福音なのです。

 

 

 

 「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前に義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ローマの信徒への手紙31926節)

 

神の法はわたしたちを罰するのが目的ではなく、救いを与えるのが目的です。

 


2019年5月12日

 

「無意味な学び」 テモテへの手紙一 1章3~7節

 

 

 

きょうは母の日です。テモテの母の名はエウニケ、祖母の名はロイス。

 

キリスト教信仰は祖母、母から引き継いだものです(テモテへの手紙二 145節)。

 

テモテは幼い頃から聖書に親しんできました(〃315節)。祖母や母が幼いテモテを信仰によって育ててきたことがわかります。「母の日」が単なるイベントにとどまることなく、毎日の感謝につながるようにと思っています。

 

 

 

さて、手紙はテモテへの挨拶が終わり、主文に入りました。

 

パウロがマケドニアに行くときに、テモテにエフェソにとどまって、エフェソの教会の人々への指導を

 

任せていたようです。依頼していたことについて手紙で再度頼んでいます。

 

テモテをエフェソにおいてきたのは、教会のなかに異なる(違った)教えを説いたり、作り話や切のない系図に心奪われている人たちがいたからです(4節)。それは無益な議論でしかなく、彼ら自身も言っていることも、確信をもっていって主張していることもほんとは理解していないのです(6節~7節)。

 

彼らは結婚を禁じたり、食べ物を断つように命じたり(テモテへの手紙一43節)議論や口論に病みつきになり、そこから、ねたみ、争い、中傷、じゃすい、絶え間ないいがみ合いを起こしていたようです(〃636節)。

 

彼らは律法の教師でありたちと思っている人たち(7節)ということは、自分は聖書を良く知っているのだ、と思い込み、一目置かれたいとの誘惑に気づかない間に陥っていたのだと考えられます。

 

 

 

ここで大事になるのは聖書の正しい読み方です。

 

「異なる教えを説いたり、作り話や切のない系図に心うばわれたりしない」(34節)

 

目新し教えに心奪われることがないようにしなければなりません。これらを聖霊による覚醒(刺激)と混同してはいけないのです。

 

このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こすだけです(4節)。

 

イエスは「あなたがたは聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証をしているものです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」(ヨハネ53940節  2017訳)と言われています。  

 

あなたが聖書を読むとき何を目標にして読んでいますか。

 

「私のこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標として」(5節 聖書協会共同訳)とあります。自分の聖書の読み方は、愛を目標にしているか絶えず自問自答して聖書を読むことです。 

 

「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。」(テモテへの手紙二 31617節 聖書協会共同訳)

 

そしてそれは、イエスの命令の実行につながっていくためです。

 

「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」(使徒言行録281920節 新改訳2017訳)

 


2019年5月5日

 

「希望であるキリスト・イエス」 テモテへの手紙一 1章1~2節

 

 

 

私たちはきょうの日曜日から「テモテへの手紙一」を学んでいきます。

 

この手紙はパウロからテモテに宛てて送られたものです。

 

少々堅苦しいと思われる挨拶に見えますが、テモテという一個人に宛てて書いたというよりも、

 

同労者としてのテモテに書いているからです。

 

 

 

1)差出人パウロとはいかなる人物か。

 

もともと熱心なユダヤ教徒としてキリスト信者たちを迫害していましたが、ダマスコの町に行く途中で復活のイエスに出会ってキリスト信者となり、特にユダヤ人以外の人たちへ伝道した人物です。

 

使徒言行録754節~81節、91節~31節などを読むとそのことがわかります。

 

「キリスト・イエスによって任命され(命令によって)、キリスト・イエスの使徒(派遣された者、使者)」

 

1節)となったのです。

 

 

 

2)受取人テモテとはいかなる人物か。 

 

使徒言行録161節「 信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父に持つ、テモテという弟子がいた。」

 

テモテへの手紙二 145節「あなたが抱いている純真な信仰を思い起しています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。」

 

フィリピの信徒への手紙220節「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。」

 

「信仰によるまことの子テモテへ。」(2節)パウロにとって子どものような存在だった人物です。

 

 

 

3)わたしたちの希望

 

パウロは、1節、2節の短い文の中に、「救い主」「希望(望み)」「信仰」「恵み」「「憐れみ」「平和(平安)」という言葉を入れています。

 

この言葉はわたしたちが生きていく上で必要なことです。

 

しかし、現実の世界ではそれがないゆえに、(わたしたちの内側にないゆえに)苦しみ、傷つき、倒れてしまっています。

 

「希望の源である神」(ローマ15:13) 「平和の源である神」(ローマ15:3316:20)「恵みの源である神」(一ペトロ5:10

 

「主(神)は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」(詩編1038節)

 

パウロはコリントに宛てて書いた手紙の中で「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙 一 1313節)と述べています。

 

「神は愛である」(一ヨハネ4:84:16

 

 わたしたちがそれらを持ち合わせていなくても、持っておられる神がわたしたちを導いてくださるのです。

 

イエスに出会った者たちは皆そのような体験者なのです。

 

会堂長ヤイロもその中の一人です(マルコによる福音書52143節)

 

 

 


2019年4月28日


2019年4月21日 イースター

 「週の初めの日」 マルコによる福音書16章1~8節

 

「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために、香料を買った。そして、週の初めの朝ごく早く、日の出ると墓に行った。」(1節)

 「週の初めの日」は日曜日のことです。私たちキリスト者が日曜日ごとに礼拝のために教会に集うのは主イエス・キリストが墓(死)よりよみがえられたことを記念する日だからです。

(日曜日が休日なので礼拝する日になったのではありません。)

 

ユダヤの安息日は土曜日ですが、安息日は金曜日の夕方の日没から始まり、土曜日の日没後までです。

 

彼女たちは安息日が終わり、空が明るくなるのを待って香料(アロマオイル)を持ってイエスの葬られた墓に行ったのです。

 

「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上り、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(8節)

 

マルコによる福音書はここで終わっていると考えられています。イエスの復活が書かれていない、唐突な終わり方です。新共同訳聖書などに「結び」とあるのは、後の人たちが他の福音書にあわせて復活したイエスに出会ったところまで書き加えたと考えられている部分です。

 

マルコの福音書の著者マルコはイエスが復活した後、弟子たちや大勢の人たちの前に姿を現したことを知らなかったのでしょうか。マルコによる福音書より以前書かれたパウロの手紙には「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人現れたことです。・・・」(コリントの信徒への手紙一153節~)と知れ渡っていたことから、知っていたと考える方が自然です。

ここで終わらせたのには、著者マルコの意図があったと思います。

 

み使いが「驚くことはない。あなたがた十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活さなって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた通り、そこでお目に書かれる』と。」(67節)

 

女たちはイエスに死なれ、希望がなくなったと思って墓に行っています。しかし、み使いは女たちに、希望が失われたと思っている墓は空だ、そこには希望はない。しかし、イエスが約束されていたとおりガリラヤで再び会える、と福音(良い知らせ、グットニュース)を語っています。 

 

わたしたちも女たちと同じように、「もうだめだ。終わりだ。」と、目の前が真っ暗になる経験は誰しもあると思います。

ガリラヤとは生前イエスが弟子たちと生活をされていた場所です。そこで復活されたイエスに出会うというのです。あなたのガリラヤはあなたの生活の場です。

 

著者マルコは、マリアたちが恐れた後経験したことを読者のあなたがたに書いて教えなくても、あなたがた自身が体験し、理解する時がきます、と言いたかったのではないでしょうか。

あなたのガリラヤにおいて、私たち一人一人が復活のイエスに出会う体験をするのです。

 


2019年4月14日 しょろの主日礼拝

 

「石が叫ぶ」 ルカによる福音書19章37~40節

 

 次の日曜日はイースター礼拝です。

その一週間前の礼拝を棕櫚(しゅろ)の礼拝と呼んでいます。

 

イエスが弟子たちと共にエルサレムに入られた時、民衆が棕櫚の枝をもって出迎えたことを記念した日(ヨハネによる福音書121213節)です。口語訳聖書は「棕櫚の枝」と訳していますが、そのあとに出版された聖書訳はほとんど「なつめやし」と訳しています。

 

この週の金曜日にイエスは十字架に架けられています。

きょうの聖書箇所はまさしくイエスと弟子たちがエルサレムに入場なさったときの話です。

 

 その時イエスの弟子たちが神を賛美し、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、高きところには栄光」と喜びの声をあげたのです。

 

イエスの弟子たちはこの時、自分たちが誤ったイエス理解からイエスに失望、落胆し、イエスを裏切ることなど想像もしていなかったのです。

 

だから、イエスのエルサレム入場を弟子たちは誇らしげに思い、一種の興奮状態にあったのではないかと思います。

 

しかし、そのイエスを快く思っていなかった者たちは賛美の声がしゃくにさわったのです。

 

「すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、『先生、お弟子たちを叱ってください。』と言った」(39節)とあります。

 

イエスは「言っておくが、もしこの人たちが黙れば。石が叫び出す。」(40節)と言われたのです。

 

彼らを黙らせれば石が叫ぶとは、誰も神を賛美する声を黙らせることはできないのだということです。

 

 

 

 イエスにバプテスマを授けたヨハネが自分たちは特別に選ばれた存在だとうそぶいているファリサイ派やサドカイ派の人たちに向かって、「言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(マタイによる福音書39節)と強い口調で言ったとありますが、ここにも「石」という単語が使われています。

 

 きょうのイエスの言葉もヨハネの言葉も神の主権と力が表されているのではないでしょうか。

 

イエスはエルサレム神殿の破壊を預言されました(4144節)が、ティトゥスの攻撃によるエルサレム神殿は紀元70年に破壊、町は陥落されました。

 

ローマの皇帝らによってキリスト教は迫害をうけましたが、紀元313年「ミラノ勅令」によりキリスト教は公認、やがてローマ皇帝の国教となりました。

 


2019年4月7日

「福音を宣べ伝えなさい」 マルコによる福音書16章14~18節

 

 この説教は2019年度の第1回目の主日礼拝の説教です。

きょうの聖書箇所は十字架の死より3日目に復活されたイエスが弟子たちのところへ姿を現された箇所です。

こう書かれています。

それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(1518節)

きょうの箇所から2点お話します。

 

1.使命

イエスは「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と言われています。

これはすべてのキリスト教会に託された使命です。この世にキリスト教会が存在している理由です。

イエスの宣教の言葉の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコによる福音書115節)でした。

イエスは生前12弟子(使徒たち)を呼び出し、福音を宣べ伝えさせるために送り出しています(マルコによる福音書6613節)。

キリスト教会の宣教は時代と共にその形は変わってきていますが、福音の核は変わっていません(たとえばコリントの信徒への手紙一154節)。

 

2.しるし

信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。

手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。

信じる者とは、イエスの命令に従って福音を宣べ伝える者たちのことであります。

そして福音を宣べ伝える者たちに神からの人知を超えた不思議な助けがあるということです。

使徒言行録はキリスト教会の誕生した頃のことを書いていますが、そこには福音を宣べ伝えた者たちに実際起こったことが書かれています。

その一つが、新しい言葉です。新しい言葉とは異言のことです。ペンテコステの日にキリスト者たちが異言を語りだし、そのことがきっかけで福音が宣べ伝えられたのです(使徒言行録2章)。

 また、使徒言行録にパウロがマルタ島で体験したことが記述されています(使徒言行録28110節)。

彼らを乗せた船が難破して、彼らがマルタ島にたどり着いた時のことです。島民の見ている前でパウロはまむしにかまれます。島民はパウロがまむしの毒で体がはれ上がるか死ぬだろうと見ていました。

しかし、パウロの身には「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず」と言われたように何も起こりませんでした。神がパウロの使命が全うされるように助けられたのです。

更にこの島で、「病人に手を置けば治る」と言われたことが実際に起こっています。

それは、パウロが熱病と下痢で床についていた病人に手を置いて治したことです。

キリスト教会(キリスト者)が全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えるという使命に生きる時、神はしるしを見せてくださるのです。